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日本はチベットから多くのことを学ぶことができる。優れた精神文化や深い歴史からだけではなく、中国に支配された経緯と命がけの抵抗運動から、我々が多くのことを学ぶべきだ。チベットが自由になるということは、日本が自由になるということだ。――このサイトの趣旨にご賛同いただける方は、サイト内の文章をご自由にご利用ください
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チベット自由人権日本100人委員会 発足記念シンポジウムに行ってきました。

日時:7月30日(水) 午後6時30分 ~8時40分
場所:永田町 憲政記念館

感想は最後に書きます。とても重要な発言がいくつもありました。早速文字起こしした参加者の発言を以下に。

 

自民党 中川昭一議員

自民党 中川昭一衆議院議員
自民党 中川昭一衆議院議員
 

中川でこざいます。
日本には人の噂は75日ということわざがある。
これはいい意味でも悪い意味でも使われる。噂ではないが、日本人は私も含めて、一時期非常に関心をもったり、憤ったり、悲しんだりしたことを、時間が経つと忘れがちである。報道されないから忘れてしまうということもある。

しかし、今日お集まりのみなさんや我々は、どんなに報道の頻度が下がっても、どんなに月日が経とうとも、忘れてはならないことがある、と思っている。
たとえば毒入り餃子事件。殺人未遂事件として捜査中の問題は、今日どこかの新聞に、もう半年経ち、なんとなく風化ている、みたいな記事が出ていたが、これは絶対忘れてはならない問題である。また拉致事件もそうである。

我々日本人と同じように、 文化、伝統をもち、平和に暮らしていた人たちが、長年 大変苦しい思いをしている。そして、最近とみに弾圧をされている隣人が大勢いらっしゃる。そのことが一時期ずいぶん報道されたが、最近はどちらかというと、いやオリンピックだ、何とかだ、ということで、報道されなくなってくると、我々の思いは薄くなってくる。

しかしチベット問題というのは我々は絶対忘れてはならないということを、今日専門家の皆様のシンポジウムを通じて理解する必要がある。
これは単に外国の人が可哀想な目にあっている、ということではない。これは他人事ではない。隣人の問題であると同時に自分自身の問題として、忘れてはならない、と思っている。
私も期待しているが、オリンピックがどんなにすばらしいスポーツの祭典だとしても、それはそれ、これはこれ、と考えなければならない。

 皆様方の怒りや気持ちがあってこそ、我々政治家は活動ができる。我々に対して、これからも変わりないご支援をいただくことで、この問題に対して政治レベルで取り組むことができる。その最大のお力は皆様方の声である。

最後に、今日は多くの議員がきているが、皆様方に、今日のシンポジウムを通じて、我々をご指導いただきたい。そして、一刻も早くこの問題をまともな形で、解決したい。それを実現するためにがんばっていきたいと思いますので、ご参加いただいた皆様方、どうかよろしくお願いいたします。ありがとうございます。

 

民主党 松原仁議員

民主党 松原仁衆議院議員
民主党 松原仁衆議院議員
 

人間社会というのは様々な普遍的な概念も、様々なその時代の主導概念も、伝染していくものだと思う。たとえば自由という我々が尊重している考え方、民主主義という我々が最も尊重すべき政治のあり方、それは地球上のある地域で発生したものであるが、よりよいものであったが故に、民主主義や、自由や人権という考え方は全世界に伝搬をしている。全世界にそういった想いが伝わって、そのことを、すべての国民が、尊重しよう、というふうになっている。

私が今日申し上げたいのは、すばらしい人権、すばらしい民主主義という概念が伝搬するように、逆の誤った概念も伝搬する、ということだ。すなわち、チベットにおける人権の抑圧、チベットにおける民族自決の否定というものが、どこかの大国によって行われるのならば、そういったマイナスの影響もプラスの影響と同じように、伝搬する。

今、中川昭一先生が「他人事ではない」と仰ったのは、まさに、マイナスの事柄も、プラスの事柄と同じように伝搬するからだ。ゆえに、私たちはチベットにおける人権の問題、自治の問題、そういったものに無関心であってはならない、というのが、人権大国であり、民主主義大国である日本の使命であると私は思う。

その意味において、きょうたくさんの方々がチベットの問題、人権の問題、まさに人類普遍のテーマをかざして集まっていらっしゃった。オリンピックがもうすぐ始まるが、オリンピックというのは、私は、人権、平和、平等、といったものを具現するスポーツの祭典だと思っている。だから我々は五輪をやるなら、チベットの人権問題、他の多くの少数民族に対する考え方を変えなさい、という主張を強く発信していかなければならない。

心あるみなさんとともに、チベットを通し、世界の人権、世界で抑圧されている社会を改革するための大きな導火線になることを祈念しながら、私も一人の同志として、仲間として戦うことをお誓い申し上げて、私の挨拶といたします。本当に今日はおめでとうございました。

 


出席した国会議員の紹介。
*印の議員は紹介時にまだ到着されていなかった方

自民党 戸井田徹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E4%BA%95%E7%94%B0%E5%BE%B9

自民党 山谷絵里子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E3%81%88%E3%82%8A%E5%AD%90

自民党 衛藤晟一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E8%97%A4%E6%99%9F%E4%B8%80

民主党 長島昭久 *
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B3%B6%E6%98%AD%E4%B9%85

民主党 渡辺 周
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%91%A8

民主党 鷲尾 英一郎 *
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E5%B0%BE%E8%8B%B1%E4%B8%80%E9%83%8E


国民新党 亀井亜紀子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E4%BA%9C%E7%B4%80%E5%AD%90_%28%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6%29

国民新党 亀井静香の代理

 


世界ウイグル会議日本代表
イリハム・マハムティ氏

世界ウイグル会議日本代表イリハム・マハムティ氏
世界ウイグル会議日本代表 イリハム・マハムティ氏
 

100人委員会発足おめでとうございます。
我々もチベットと同じように、長い間弾圧を受けてきた。最近我々も注目されるようになったのは、チベットの英雄たちが行動してくれたからだ。

私たちもチベットと同じように、60年間苦しんできた。みなさんと同じように、日本のような国で生活することが、私たちの理想だ。でも残念ながら、同じ地球に住んでいるのに、私たちは自分の主張さえできない。そういう環境の中で生活してきた。

私たちは、日本という国は、経済大国というだけではなく、民主大国としてもこのアジアでその役割を果たしてほしいと思っている。

我々のリーダーであるラビア・カーディルさんが刑務所の中で次のように叫んだ

「なぜ日本人はここまできてくれなかったのか!」
「なぜ我々は日本の植民地になれなかったのか!」

彼女の声は、我々ウイグル人の声だ。
もし日本の植民地になっていたら、自由で民主的な環境で生活していたかもしれないからだ。

私は、日本の皆様に、共に努力して、日本がアジアの民主化で重要な役割を果してほしいと願っています。
どうぞ皆様よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


 ※ラビア・カーディル氏の正確な発言
http://www.geocities.jp/kokok0512/shokun_3.htm
(もし私たちが中国ではなくロシアやイギリスに侵略されたとしたら、東トルキスタンの地はまた違う姿だったろう。中国と戦った日本人はなぜ、私たちの所にまで来なかったのか。彼らが来たら、私たちの運命は今とは変わっただろう。)
 

スピーチ予定のモンゴル人民党の方は欠席

 

委員会最高顧問 加瀬英明氏

外交評論家で委員会最高顧問の加瀬英明氏
外交評論家で委員会最高顧問の加瀬英明氏
 

今日はチベット自由人権100人委員会を日本で立ち上げるその発会式に、大勢の皆様がご参加くださいましたことを心から御礼申し上げます。

今日はダライラマ法王猊下の実のお兄様でいらっしゃいますギャロ・ドゥンドゥプ閣下が、このために一昨日インドからお見えくださっています。あとでお話を伺うことになっています。

また先ほどは東トルキスタンの代表の方がお話しくださいました。南モンゴルの方もこれからお見えになることになっています。

チベットは独立国であって、中国の一部ではないという証をひとつだけ申し上げる。1950年に中国の人民解放軍がチベットに侵入し、その武力の威嚇でチベット政府と中華人民共和国の間に17箇条の協定が結ばれた。これは武力による威嚇のもとに行われたものである。その中に、チベットは中国に外交権と国防権を委ねる、しかし、それ以外はチベット人にすべてを委ねる、という内容がある。要するにチベットの高度自治を認めたことになる。しかし考えてみると、中国は自国の漢民族にも高度な自治を認めていないから、どうして、占領したところで高度な自治を認めるようなことがあろうか。しかし、外交権と国防権を奪った、ということは、それまでチベットは中国の一部ではなかった、ということの証である。

そして中国はチベットにおいて大虐殺を行った。チベットから大量の難民が出た。今日でも毎月数百人のチベットの若者がインドを目指して、 ヒマラヤを越えてきている。その途中で多くの若者が中国軍に射殺され、血を流している。

大量の脱出が続く、というのはヨーロッパでは東ドイツがそうだった。東ドイツから50万人60万人70万人と西ドイツに脱出するので、1961年に東ドイツ政府はベルリンの壁を築いた。
1963年、若きジョン・F.ケネディーがベルリンを訪問し、 壁の西側に演壇をつくって、東ベルリンを覗きながら、民主と自由、人権を訴える演説を行った。そのときケネディー大統領は、"Ich bin ein Berliner."、「私は一人のベルリン市民だ」と言った。全世界の自由な人々は、ベルリンの市民であるべきだ、ということを訴えた。
チベットが解放されない限り、私たちは心を安んずることができない。
その意味で、私たちは一人一人がチベット人である、と言っていい。
ワシントンに本部を置く"International Campaign for Tibet"チベット国際救援委員会とでもいうのでしょうか、そういう国際的な組織がある。アメリカの高名な映画俳優、リチャード・ギアもそのメンバー。 世界中から多くの方、ノーベル賞を受賞した学者なども名前を連ねている。私もその一人として、チベットの“独立”を支援してきた。そういうわけで、風邪で休まれた小田村先生に代わってみなさんにご挨拶することになった。

アメリカでは、チベット自由人権100人委員会が発足している。ドイツでもすぐに同じ委員会が発足することになっている。次々と世界中で100人委員会を立ち上げていく中で、日本でもこうして100人委員会を結成することになった。すでに100人を超しているが、これは俗称なので、500人、千人、1万人になっても、100人委員会という呼称を国際的な連帯のために続けていこうと思っている。

我々としては、できればまず地方議会から、我々のチベット解放へ向けた運動を支持する決議を行っていただきたい。今日も多くの地方議員がお見えになっている。地方自治体の長もお見えになっていると思う。

チベットだけでなく、東トルキスタン、南モンゴルも中国の一部ではない。満州も中国の一部ではない。
中国は世界最後の植民地帝国。20世紀の歴史は、大帝国の解体の歴史だった。第一次大戦で敗れたドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン・トルコ帝国、第二次世界大戦では、わが日本帝国をはじめ、大英帝国、イタリア、フランス、ベルギー、オランダを始めとする帝国が解体。ベルリンの壁が崩壊したとき、ソ連帝国も解体した。今日最後に残っている植民地帝国が中華人民共和国。中華人民共和国が崩壊しない限り、アジアにおける平和を実現できない。今日はみなさんとともに、チベットの民族自決にむけて、日本人としてできるだけの力を尽くし、戦いを始めたいと思う。

日本の岩手県の作家、宮沢賢治は、「みんなが幸せにならなければ、私は幸せにならない」と言った。チベットを始めとする、抑圧され、人権を奪われた人たちが解放されない限りは、私たちは、幸せという言葉を使ってはならないと思う。

みなさん、ぜひ100人委員会の輪を大きく広げて、日本が再びアジアの開放のために、戦ったということを、子々孫々に伝えていきたいと思う。

今日は本当に会場をいっぱいにするほどお集まりいただき、御礼申し上げます。ありがとうございました。

http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/33/ へ続く



 

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石濱裕美子氏への質問

Q。チベット政府があのときこういうことをやっていれば中国に併合されることはなかった、というようなターニングポイントはあったのでしょうか?

A。1913年から51年までチベットは事実上独立の時代にあった。だからあの間に、ちゃんと国家としての承認を第三者に求めるという努力を何らかの形でしていれば、あれほど無惨な形で国を奪われるということはなかったと思う。これについてはダライラマの最初の自伝『チベットわが祖国』に「自分のものである国を自分のものであると証明することなんで誰も思いつかなかった」と書いてあるが、そういうところをご覧になっていただければおわかりいただけると思う。

Q。封建身分制度はあったのでしょうか?

A.あったと思います。貴族がいてお坊さんがいて、高僧からお茶くみ僧までいろいろいた。それは日本においても徳川時代に武士の身分があったり、大名の身分があったりするのと同じで、そういうようなもののチベット版があった。多分裏に含まれている質問の意味は、いわゆる虐待は行われていたのか、ということだと思うが、封建制度におけるいろんな刑罰とか習俗というのは今から見ると非人道的なものが多い。そういうものはチベットに実際あったと思います。喧伝されているとおりのものかどうかはわかりません。日本のさらし首とか竹で首を切るような刑罰を今になってからあれこれいうのと同じで、あまり意味のないことではないかと思う。


Q.現在のラサ市内は昔の面影をほとんどなくしたような状態ですか。

A.何を基準にするかですが、ポタラ宮の職人村も歴史的建造物だったのに、世界遺産に認定されると現状を変えられなくなるので、ドコドコ壊された。特に94年にトゥルナン寺とポタラ宮が世界遺産になる直前は、特に破壊された。もっと破壊された場所もあることを考えると、まだラサの旧市街は多少は面影を残しているのではないかと思う。しかしそれもどんどん変わってきている。

Q。中国が認定したパンチェンラマしか表に出ない状態でダライラマ15世はどのように選ばれると思いますか。

A.ダライラマ14世は、中国が統治しているチベットには生まれないと言明している。間違いなく外国でお生まれになる。インドかどうかはわからないが。そういった場合、伝統的な転生の探し方によると、別にパンチェンラマだけに限らず、生前のダライラマ14世の側近の方たちがいろんな形で選ぶし、シャーマンにお伺いもたてるし、複数の状況を総合して決める。何もパンチェンラマの意見ですべてが決まってきたわけでもない。どちらにせよ中国外で生まれるので、中国政府が仮に別の15世を作ったとしても、現在のパンチェンラマ同様、たぶんあまり力は持ち得ないと思う。

Q.歴代清朝皇帝とチベットの関係について。乾隆帝。18世紀に現れた満州王朝清朝最盛期の皇帝は確かにチベット仏教を信仰されたが、政治的な意図があるのではないか。

A.一人の人間がチベットとどういうように関わってきたのか、乾隆帝のように即位が長い場合には一概には言えない。即位したての頃の、熱烈にチベット仏教に恋している時期もあれば、いろいろな政治的悶着が起きて冷めるときも、いろいろある。グルカ戦争が終わった後は極めて現実的な気持になって、お金もかかったしチベットにはずいぶん振り回されたという意識が乾隆帝にもあった。雍和宮(ようわきゅう)に立てた碑文には、私がこれだけチベット仏教にてこ入れするのは、モンゴルとの同盟を考えてのことである、という現実的な言葉が並んでいる。しかしそれは最晩年のこと。それ以前の彼の発言、行動は完全に宗教者のもので、宗教と政治が同じ目的に集約していたので、彼にとってはチベット仏教を信仰することが安寧につながっていたので、政治と宗教は共存していた。


Q.中国がチベットに執着する理由は?

A.これは中国政府に聞いてみないとわからないが、俗に言われているのは次の三点、
・人口が非常に多いので領土を失うことは避けたい
・資源
・民族問題的にチベットが仮に分離独立したらウイグル、南モンゴルなど他にも中国から離脱を望んでいる民族がいることを考えると、ああいう姿勢を取らざるを得ない。

 

 

野田雅也氏への質問

Q.四川大地震のチベットでの影響はどうでしたか。

A.質問の中でこれが多かった。
今回私は成都のほうから被災地に入り、実際に被災現場の状況を見てきた。
被災地は南北に延びているが、さかのぼりながら、様子をみながらチベットに入った。
チベット高原と成都は落差があるがそのつなぎ目のところでドンとはじけたような感じで、岩盤が固いチベットのほうは、ほとんど影響がなかったと言われている。私もその辺に行って確認してきた。実際のチベット人居住区ではほとんど被害はなかった。
私は偉いなと思ったが、成都ではチベット人の若者たちが、被災地でボランティア活動を結構やっていた。3月にこういうことがあって、学校の中でもチベット人と漢民族の仲違いができてしまって、チベット人が何かやることで認めてもらおうと、有志が5人ぐらい集まって、被災地に入っていた。彼らの話では、カム、アムドから出稼ぎにいこうと成都行きのバスに乗ったグループがいる。その方たちのバスが被害にあっている。
被災地に入って私も非常に驚いた。コウエンからモンセン、さらにずっと上の方まで被害が広がっている。

 

Q.3月の騒乱の犠牲者の数は?

A.中国の発表では19人。チベット亡命政府は209人。3月14日に一般のチベット人が石をもって一斉暴徒化してしまう。非暴力とはいえないので私は批判したい。日本人旅行者にも聞いたが、チベット人が石を投げて、肉切り包丁の大きなナタを使って漢人の車を襲ったり、バイクを襲ったりしていた。確かにああいう状況になったら人間はどういう行動をとるか、抑制が利かなかったのだと思う。
しかしその日の夕方、6時ぐらいから、軍が入ってくる。このとき発砲命令が出る。そのときの状況を4、5人から聞いたがひどい状況だった。
装甲車がひっきりなしにとおって、10~50台が常に街の中を巡回していた。道を通るときに、チベット人の道沿いの住居に機関砲を乱射しながら走る。装甲車が住居に突入して銃撃したという例もある。
目撃した日本人も驚いていたが、爆発音がすごかった。たぶん手榴弾の音。あちこちで爆発音がしていた。装甲車の乱射も爆発音も15日の朝までひっきりなしに続いた。

私がネパールのカトマンズにいたときに、ラサから目撃者が逃げてきた。彼がいうには、15日の朝の時点で、ジョカン寺の前に死体の山ができていた。
他の人の証言でも14日は死体を越えながら逃げたとか、弾の中を逃げて、多くの死体を見た、という証言はかなり出ている。一晩で死体の山ができるほどです。
それはラサの話だが、他の街でもおこっている。アパでも被害者の写真が出た。それまで被害がどういう状況か一切わからなかった。アパの地元の人が携帯で撮影して亡命政府に写真を送り、世界に流れて初めて、被害が出ているということがわかった。
そのときも中国政府は軍隊を使っていない、発砲はしていないと主張していた。だが、その写真が大きな証拠となった。

私も今回、亡くなった方は大勢いると思う。それ以上に心配なのは拘束された方々。本来なら葬式をするのだが、今回の犠牲者の葬式はまだ誰も行われていない。それが心残りだと言っていた。葬式をやると中国の発砲等で死んだ証拠となる。それで葬式をやらせてもらえない。

今回拘束された人たちについてはいろんな証言がある。ラサの中では、ラサ駅は全体が収容所になった。空港もすべて収容所になった。チベット鉄道が、貨物列車、遺体列車、拘束列車となって、中国各地に囚人たちを運んでいったという話があった。誰もどこにいったかわからない。家族たちも自分の息子たちがどこにいったか知らされていない。
ただ悲痛な毎日を過ごしているだけ。

何も証拠がありません。私もすべて伝聞で聞いたものばかり。何人亡くなったか断言できない。

Q.チベット本土にいるチベット人はダライラマを指導的存在と見ているのでしょうか?

A.チベットに600万人いたら、598万人、599万人はダライラマを心から尊敬していると思う。自分の親よりも尊敬しているということはいろんな人から聞いた。
ただし中国の経済的影響によって確かにそうではないチベット人も出てきていることは確か。漢民族みたいになっている人もいる。だからダライラマを尊敬しているのは、600万のうち599万9000人ぐらいだと思う。


Q.チベット青年会議について。
A.最近中国政府は、彼らのことをテロリストと呼んでいるが、彼らは誰一人殺していないし、私もたくさん友人がいる。彼らが過激派かというと、私はそうじゃないと思っている。インドの亡命政府はすごく民主的な社会だが、その中でもちろん独立をもとめる人も出てくるし、ダライラマもそのことは十分承知している。チベットが高度な自治を選んでいるのは、国民投票ではないが、難民投票を実施して、投票で選んでいる。多くの人が独立より自治を選んだ。その中でも独立派というのは出てくると思う。でも彼らはどれくらいのビジョンをもって独立といっているのか、私も疑問に思っている。


チベット北部、ココノル湖での原爆、水爆実験の映像

ウイグルのタクラマカン砂漠でも核実験が行われており、合わせて46回行われている。
最後の核実験から20数年経っている。
昔は被害が出ていたという話は聞く。
核の被害がどうかわからないが、周囲でチベット人が放牧しているが羊の歯が抜けているという報告を聞いた。通常寿命は6年だが、長生きしても4年だった。地元の人が青海省政府に調査を依頼し、青海省政府が北京政府に陳情し、北京から研究者たちが来て、土、水のサンプルを採り、結果を伝えた。核施設から4km下流に錫の工場があり、その廃液が羊の病気の原因ではないかということで、正確な情報はない。
チベット人、地元の人は核のことは何も知らない。放射能という言葉も知らない。私がそのことを話すと、そんな嘘を、と言われるが、だからなかなか被害状況はわかりにくい。
錫工場が原因かということも疑問ではある。


野町和嘉氏への質問

Q.チベットの風土と信仰の関連性について

A.鳥葬の写真があったが、これにチベットのいろんな要素あるんじゃないかと思う。高度4000mなので火葬にしようにも薪がない。土葬にしようにも半永久凍土。鳥に食べていただいて、次の命のために、魂が抜けた後の体を提供する。
彼らはハエも殺さない。市場で私にたかったハエを叩くとにらまれる。あの高度なので、乾いているし、病原菌がはびこる環境でもない。高度4000mは異質の世界。その異質の世界に惹かれた。ブータンは稲作をやっているが、そことも違う。
チベット仏教のカルマの話。私が感動したのは、亡命チベット人の尼さんの話。彼女は凄まじい拷問を受けている。私をあれだけ痛めつけた中国人たちが来世に背負っていかなければならないカルマのことを思うと、あの人たちが可哀想でしかたがない。
これはチベット仏教の信仰の深い部分だと思う。

 

渡辺一枝氏への質問

先ほど言い忘れたことをまず。野町さんが紹介した写真集に、チベットがひどい農奴制度にあったのを中国が解放した、とあった。私はかつて荘園で働いていたチベット人から話をきいたことがある。私たちは農奴というと、牛馬のように働かされて、食べ物もろくになくて、というものを思い描く。そのチベット人の話では、ぜんぜんそういうことはなく、衣食住は保証されていて、女性が生理でつらいときは畑仕事をしなくてよかった。

Q.定住をしなければならない遊牧民は現在どのように生計を立てているのでしょうか?

A.いろんな人がいると思うが、生計を立てられない人がかなりいる。チャムドで村ごと引越しさせられ、あちこちに強制移住させられた。伝統のある場所から切り離されて、動物を放つ草地もない。ひどい荒れ地に移された。生計が立てられないから、気持がすさみ、先住者といざこざが起きる。学校で、子供のケンカでケガの補償金を要求したりする。
政府の影の目的はチベット人同士でいさかいを起こさせる、ということがあるんではないか。いさかいを起こすと拘束もできる。
強制移住させるのは、そこにおいしいものがあるからじゃないか。チベット人がもともと住んでいたところは、人が住みやすい場所に違いないから、漢民族を移住させようとしているとチベット人が言っていた。かつて日本が満州でそういうことをした。

Q.オリンピック後中国はどのような方向を辿るのでしょうか? 軍事、自然破壊、人権軽視といった負の面ばかりをみると、第2のアメリカのようになるようにもおもえますが、いかがでしょうか?

A.私もどうかそうじゃないようになってほしいと思っているが、私自身中国政府のやり方はほんとにけしからんと思っている。かといって中国人が嫌いというわけではない。残留孤児の取材をして、もし同じ状況が日本であったら日本人は育てただろうか、と戦争中の学童疎開で田舎の人のことを考えるとそう思う。中国人の心の深さを感じる。
チベット本土のチベット人たちも、中国人がとにかく嫌いというわけではない。ほんとのところは中国人にはいてほしくないが、チベット人が昼食を食べようとチベット人の店に入ろうとすると、清潔ではない。働いているチベット人もやる気がない。でも中国人のレストランはきれいにしていて、中国人は一生懸命働いている。自分はチベット人だけれど、中国人のああいう面は見習わなければならないと思ってます、というチベット人もいる。
チベットでチベット人と一緒に歩いているとき、中国人の若い兵隊が腕に若い女を絡ませて、銃で犬を狙った。恋人ではなく、商売女だが、その女が制止した。すると兵隊は銃を鳥に向けた。それを見て、私はこんちくしょうと思って兵隊のところに行こうとしたら、チベット人に「やめなさいよ、あの中国人は可哀想な奴だと思わないか。あんたがあんな奴のために自分の平和な心を乱してどうするんだよ。あいつのために祈ってやれよ」と言われた。
チベット人たちと一緒にいると、中国人だから嫌い、中国人の国だから変な風になってほしいと思っていなくて、私も、どうかオリンピックが終わって、中国が中から真に目覚めて、変わっていってほしい、という願いをもっているが、もしかしたら、第2のアメリカのようになっちゃうのかなぁ、とそのことを恐れています。


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感想

3時間半の講演だったが、聞きたかった情報がいくつもあったので行ったかいがあった。
石濱先生の講演は、特に凝縮されていて、話し言葉が文章としてもかなり正確なので文字おこしがしやすかった。
石濱先生への質問に対する答えの「ちゃんと国家としての承認を第三者に求めるという努力を何らかの形でしていれば、あれほど無惨な形で国を奪われるということはなかった」というのは、今の竹島、尖閣諸島や東シナ海のガス田の問題にも通じると思う。北方領土については、比較的日本は強く主張してきた方だが(それでも手ぬるいとは思うが)、竹島や尖閣諸島(ガス田)は、中国と韓国の対立を避けて、相手が何か主張したときに、その場で強く抗議せず、友好を強調しすぎてきた。そのことが将来に禍根を残す可能性が大いにある。もし日本の領土だと思っているのなら、なぜあのとき中国韓国の主張に抗議しなかったのだ、と国際社会に日本の主張が受け入れられない可能性がある。チベット問題を見て分かるように、国際社会は正義だけでは動かない。利害で大きく動く。また慰安婦問題でわかるように、国際社会は、大声を張り上げ続ける者の嘘を信じることもある。


フォトジャーナリストの野田氏は、若い方で、口調も淡々としておられるが、やっていることを見ると、とても根性の座った方。マスコミでは流れない、貴重な現地の様子、現場の声を伝えてくれたことに感謝。
チベット側の地震の被害はたいしたことはなかった、というのは、ペマ・ギャルポさんも雑誌の対談で同様のことを話していた。でも、先日の竹内正右氏チベット現場報告では、震源付近には労働改造所がたくさんあり、そこでかなりのチベット人が犠牲になっているようなことをおっしゃっていた。

青海湖(ココノル)付近で核実験が行われていたというお話があった。核施設や放射性物質の投棄の話はダライラマ法王事務所のサイトにもあったが、核実験の話はなかったので、ロプノールの間違いではないでしょうか。
http://www.johnstonsarchive.net/nuclear/tests/PRC-ntests1.html
のページでも中国の核実験の場所はすべてロプノール(LN)となっています。  



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http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/29/ の続き

「チベット人の暮らしと文化」 渡辺一枝氏(作家)

今日はチベットの農業地帯の人たちについてのみお話しする。
チベットは仏教とまったく切り離して考えることはできない。
ボン教とも非常に結びついた生活をしており、山川湖には聖なるものが宿っていると考えている。
最初に写真を10枚ほど。

農作業を始めるまえにお香を焚いて、豊作を祈っている写真。
ヤクにスキを引かせている写真。ヤクの頭の赤い飾りも豊穣を願うもの。
大麦が実っている写真。かかしを立てている。
豊作の感謝祭。刈り入れ前にお坊さんを呼んで、畑でお祝いをしている。
脱穀作業。家の屋上で。殻竿をつかって脱穀することや、動物を使って脱穀することもある。
風選作業。自然の風でやっているが、最近は大きな扇風機を使うこともある。
収穫後、脱穀が終わり、お祈りをする。
秋になると、牧畜の民と農民が交易をする。その風景。

土地山川湖などに彼らは聖なるものが宿っていると考えている。
4300mくらいのところでも大麦を作っている。

1987年初めてチベットにいった。高野山の僧侶たちとチベット仏教の寺を見学するツアー。
とてもつまらなかったので、休憩時、仲間から外れてポタラの西の畑にいった。チベット人たちが畑をすきおこしていた。私も一緒にスキの歯を振るわせてもらった。そこは3800mほど。
ブータンの国境付近はお米もできる。作物はもともと大麦、ジャガイモ、トウモロコシ、マメ、カブ、そういうものをつくっていた。87年には小麦の畑もあった。大麦はチベット人の主食ツァンパの材料。小麦も少しは作っていた。でも59年にラサが中国に支配されて、あるいはそれ以前49年中華人民共和国建国されて50年代に中国軍がラサに入っていった、その時点ですでに大麦畑が小麦に転換させられていった。

漢民族の主食は小麦。東北の方はお米も食べるが。
87年に行った後、小麦畑がどんどん増えている。小麦だけではなく、野菜畑も増えている。90年代の終わりくらいから、ラサの近郊ではビニールハウスがすごく増えている。もともとチベット人の畑だったが漢人がどんどん流入して、すごく安いお金で畑地をチベット人から借りる。そして自分たちが食べる野菜を作っている。安いお金で土地を買い取って、月賦で払うといって払わずに逃げる漢人もいるということをよく聞いた。

最近、もっとひどいのはスイカ畑が増えている。4年前までラサの近郊でも交易の風景があったが、2006年鉄道が開通して、駅の周辺を買い取って、交易の風景が見られなくなった。

私は日本では菜食主義だが、外国ではその地の食べ物を美味しくいただく。チベットのジャガイモがとても美味しい。いつも美味しいというので、チベットに行くと知人がいつもゆでたジャガイモをどっさりもってきてくれる。
ラサの街でも田舎でもジャガイモをよばれる。美味しい美味しいと言っていると、日本にジャガイモはないのか、と言われる。「こんな美味しいジャガイモはないんだよ」と答える。
このジャガイモは自家用だという。それを聞いたのは2001年。
どういう意味と聞くと、政府が農薬を使うよう指示しているという。ある面積ではこれだけの量を使えと言う。その農薬を買い取らなければならない。自分たちは使いたくないので、自分たちが食べる分の畑では農薬を使わない。だから美味しいんだろう、ラサの街で買ったジャガイモはおいしくないだろう、と言う。

チベット人は土地も、水も命も大事にしている。農薬なんていうものは彼らの信条からは使いたくないが、今は使わされている。


大麦の畑が小麦にかえられ、畑がどんどん漢人の手に渡った。昔は自分たちが食べるものはほぼ自給自足できていたが、今は資本をもった人が買い占めて、それを小売りするようになった。それで現金がなければやっていけなくなり、スイカをつくるようになった。2000年代になってから、中国人旅行者がものすごい勢いで増えている。世界で一番スイカを好きなのは中国人。
ほんとに中国人はよくスイカを食べる。それで大麦を作っていた畑でスイカを作り、道ばたで売ると、即現金が入る。

とても悲しいことだが、大麦畑を小麦畑に変えたのは、最初の頃は強制的かもしれないが、最近は強制的ではないが否応なしにチベット人自らがそうしてしまっている。手っ取り早く現金を手に入れるにはスイカを作るしかないと考える。
スイカを作れと強制せずにうまいやり方で、作らせる。それがとても悲しい。

畑をスキおこすときに、ヤクを使わず、どんどん機械に変わっている。スキの歯も中国式のものになっている。中国式は土を深く掘り起こす。

牧畜地帯の人たちの家畜は、専業の人に、屠ってもらい、その季節に食べる肉を手に入れていた。今はヤクの肉は大変美味しいということで、放牧ではなく、飼育場で育てられ、食肉工場で解体される。チベット人たちも今は肉を工場で作られていると言っている。
彼らの食生活は今はこのように変わってきている。

ジャガイモの原種はアンデスなので、チベットにも合うので、美味しい。
カブは新鮮なものはスープにしたり、皮をむいてそのまま食べたり、干して家畜のエサにする。カブをヤクのミルクと黒砂糖でよく煮て、そのあと燻す、と携帯食になり、巡礼の途中でそれをしゃぶると元気になる。

たくさんカブをもらったので、日本に持ち帰り、亡命チベット人に分けてあげた。チベットを離れて40年ぐらい経っている人。それを見せてもわからなかったが、口に含んだとたん、サーッと記憶が蘇り、「アーッ!これはなんとかだー!」と言った。
チベット本土にいる人も大変な目にあっている、心の自由がないが、、亡命した人も、物を言えても、チベットを変える力にはならず、つらい状況にいる。

先のお三方のお話で、今年の3月に起きたことだけでなく、長いスパンのチベットの状況がわかったと思うが、どうかオリンピックが終わっても、チベットから目を離さないでいただきたいと思います。彼らは必死になって声をあげた、その声を無にしてしまうわけにはいかないと思います。お願いします。


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「歴史からひも解くチベット、中国、モンゴルの関係」
早稲田大学教授 石濱裕美子氏

チベットの人たちが自分たちの国のことをどのように考えているか、入門的な話。
幸いにも壊されずにすんだ、14世紀のギャンツェの寺院にある観音像。真ん中に4本手の観音様。右には緑ターラ菩薩、左には白ターラ菩薩がいる。このお三方がチベットの歴史において非常に重要な意味をもつ菩薩様。
阿弥陀様が仏様になられて、仏になると輪廻はしなくなり、この世の我々からは遠い存在になる。
阿弥陀様の中の慈悲、愛と哀れみの心が人間を救おうとするときに、この世界で観音様のお姿をとる。この写真の観音様の上には阿弥陀様の顔がある。阿弥陀様がこの世界で働くときのお姿が観音様で、そのシンボルは蓮の華。菩薩というのは仏教では、修行を重ねて仏になるところまでいっているにもかかわらず、我々が苦しんでいるのを見るに見かねて、この世に留まって人々を救ってくださる。しかも仏になるほどの方なので、超常的な力をもつ。

13世紀以降のチベットの史書には観音様についてこう書かれている。
観音様は、太古の昔、チベットに現れて、すべての命あるものたちを悟りに導こう。それが実現するまでは楽な思いをしないという誓いを立てる。チベットにおいて、人類の発生もすべて観音様のお力によるもので、7世紀、そろそろチベット人も仏教を学ぶだけの精神性をもつようになったと判断され、王の姿になって現れた。

写真の真ん中の像がソンツェンガンポ王。開国の王としてチベットを歴史時代に導いた王様。向かって右の像が、ネパールからきた妃。左が中国からきた文成公主。この二人が白ターラと緑ターラの化身と言われている。ソンツェンガンポ王の頭の上には阿弥陀様がのっており、ターバンで隠していたと13世紀の史書には書かれている。

史実としてソンツェンガンポ王は実在するが、チベット史の重要な一コマなので、13世紀以降神格化される。この王はマルポリの丘に宮殿を建てる。現在ポタラ宮が建っているところ。
チベットを混乱させる元となっているのは夜叉女。チベットの国土の上にいる夜叉女が動くと戦争や病気が起きて、不穏になる。だから夜叉女が動かないように両手両足の上にお寺を建てる。夜叉女とは仏教が伝わる前の人の心を表している。みんなエゴイスティックで自分のことしか考えなくて、自分の地域、自分の家族、一族のことだけを考え、チベットは混乱していた。
そこに仏教を導入してもっと高い視点で、各々がたるを知って、自分の幸福というのは他人を敵にして戦うことによって得られるのではなくて、自分の心を平安にすることによって得られる、という仏教的な考えを持ち込むことで、チベットが幸福、平和になっていったということが開国神話に描かれている。
中国からきた妃がラモチェ寺を建て、ネパールからきた妃がトゥルナン(ジョカンと呼ばれている釈迦堂)を建てた。この二つの寺の門前町がラサの街として、現在見るような姿に発展する。
街の真ん中にあったトゥルナン、釈迦堂は歴代の為政者が崇拝して飾り立てられてきた。

現代人が書いたチベット上の夜叉女の絵。夜叉女の真ん中にラサがある。心臓に杭を打ち込むような形で、最後に夜叉女の動きを止めている。両手足、肘ひざ、付け根全部で12個所に寺を建て、最後にラサの都が築かれたという、歴史的な神話を絵にしたもの。


パリのギュメ美術館所蔵のラサにある僧院をすべてまとめて描いた仏画。
上にセラとガンデンとデブンがある。ラサの街中が下の方にまとまっていて、画面より上がポタラ宮で、画面のこっちがトゥルナン寺、こっちがラモチェ寺。
もともとソンツェンガンポ王の王宮があった上にダライラマ法王がポタラ宮を建てた。
ラサの街の中核に、7世紀の3人の事跡が生きている。

89年のジョカン寺の写真。昔はびっしりその周りに貴族の館が建っていた。中国がきてからは前に広場が作られて、整理されてしまった。しかし今なお7世紀の碑文がお寺の前に残っていたりする。屋根の上のゲンツェン?と言われる木でできたものに、18世紀の貴族の名前が入っている。
お寺の中身は全部壊されて、宗教的でないものが若干残っただけだが、それでも歴史的なものが重々重なっていて、すごい一角です。
お寺の前にある碑文は、中国とチベットが戦争したときに、もうこれから戦争は止めましょう。チベット人はチベット人の領域を守り、中国人は中国人の領域を守って平和に暮らしましょう、と書いてある。
この碑文は当時、唐の長安とトゥルナンと、国境地帯に建てられたが、これだけが残った。

トゥルナンのお釈迦様が11才のときの像。お釈迦様は出家されていないので飾りがいっぱいついている。この飾りは歴史的に、モンゴルの王侯アルタン・ハーンやダライ・ラマ5世など、チベットで名前を残した為政者は、必ずトゥルナンの復興に名前を残している。
この写真は89年なのでまだダライラマの写真が残っている。今は全然だめ。

ラモチェ寺の3,4年前の写真。先ほどのギュメ美術館のタンカとほとんど形が同じ。
ここで私が何も言わずにカメラを構えて写真を撮ったら、お坊さんにすごく怒られた。私はどう見てもチベット人には見えないから、スパイかなんかと間違えられたようだ。物凄く怒鳴られたのでここのお坊さんは気が荒いな、と思ったら、案の定今年の三月に蜂起していた。


お渡しした資料にダライラマの転生譜がある。17世紀ぐらいにこの転生譜が確定する。
ダライラマの転生譜はチベット史と密接にリンクしている。
お釈迦様の時代から転生が始まる。最初はもちろん観音菩薩様。インドでの前世が36代続き、古代チベットに入ってから、37代目から46代目まで続く。37代のニャーティツェンポ王がチベットに登場した最初の王様。インド王家の末裔がチベットに亡命。チベットのボン教徒に推戴された初代王。
その後何代か王がいて、43代目ソンツェンガンポ王が国を統一。マルポリの丘に宮殿を築き、チベットを統一し、この頃、他の国にまで記録されるチベットという国の歴史時代が始まる。
チベット文字を制定して、ネパールと唐から妃を迎え、両国の仏教をチベットに導入。

この時代は後にすごく理想化されて、この王様の時代には仏教に則った政治が行われていたというふうに思われ、その後のチベットの為政者はこの時代を再現することが目標になる。

9世紀のティソンデツェン王。古代チベット最強の王。チベットで初の僧院サムエを建立。チベット人からなる現在世界に散っているチベット僧団の最初を開いた。

この時代、中国では安史の乱が起き、チベット人はトルコ人と組んで長安を占領。
考えようによってはこの時代、チベットは中国を侵略していた。そういう時代もあった、と遠い目になってしまう。

46代ティレルパチェン王。世界の2/3がチベットのものであったと言われるぐらい、強力だった。その後まもなくダルマ王が出てきて、仏教を弾圧。仏教の弾圧とともに、古代王国が崩壊。
ソンツェンガンポから始まってダルマ王に終わる時代がチベット人にとって理想の時代として、その後の長い分立時代に語られることになる。

宗派分立の時代。チベット史を超簡単に考えると三段階になる。古代統一の時代、中世分立の時代、近世ダライラマ統一政権の時代。
47代目ドムトン。ダルマ王が弾圧して仏教がなくなったとき、仏教を立て直そうと、インドから、アティーシャというインドのディクラマシーラ僧院の僧院長が呼ばれた。その弟子がチベット仏教の基礎を作った。それがドムトン。この方を慕う人の派がカダム派。以後の数派現れるチベットの宗派の母体になる。

55代サチェン・クンガーニンポ。サキャ派の祖師。
56代シャリンポチェ。ツェル派カギュ派の祖師。
という風に現代にまで伝わる他の宗派の祖師が組み込まれていて、その時その時で活躍した方がダライラマの前世に組み込まれている。17世紀の転生譜だからこういうことができるとも言える。

62代からダライラマ体制がはじまる。ダライラマという一人の方が亡くなると次の方を探すという制度が始まるのは63代目ぐらいから。

ダライラマの登場を助けたのはツォンカパの宗派で、ダライラマはツォンカパが創始したゲルク派の高僧。ツォンカパは分裂していたチベットのいろいろな物の考え方、修行法、教育法を極めて天才的にまとめ上げた。教育システムをきちんと整備した。僧院の秩序を整然としたものにした。教義も、密教やっている人は密教だけ、顕教やっている人は顕教だけ、多様だったチベット仏教のシーンを塗り替える。どこにいってもツォンカパの顔があるが、他の宗派を圧倒していくだけの力と教義があった。その弟子がダライラマ1世。
ゲルク派が拡大するとともにダライラマも力を持つようになる。

ダライラマ3世の時代、ゲルク派はモンゴルにまで進出。
絵の右下の小さい人物はアルタン・ハン。南モンゴルを統一した英雄。この人がダライラマに仕えることで、以後モンゴルに怒濤のようにチベット仏教が入っていく。
この絵の人物の大きさの違いが、二人の力関係を表している。

17世紀、ダライラマ5世の時代。ダライラマ政権とゲルク派がチベットの統一に成功する。
ゲルク派の背後にあったモンゴル軍の力もあるが、宗教的な権威が強くて、モンゴル軍はあくまでもボディーガードだった。
ダライラマ5世が手にしているのは法輪。歴代のダライラマの絵でこれを手にしている人は強力な世俗的な権力をもっていた。5世以前は法輪を持っていない。即位前に亡くなった若いダライラマも持っていない。5世は法輪を持つにふさわしい生涯をおくった。
彼が行った一番すごいことはマルポリの丘にポタラ宮を建てて、自らをソンツェンガンポ王の再来であり、観音菩薩の示現であることを示されたこと。

ダライラマ5世の肖像。手に蓮の華を持っている。これはダライラマが観音様であることを示している。モンゴル王侯グシ・ハンも描かれている。この王侯は代々青海地方に子孫を駐留させてダライラマのボディーガードをさせている。
ポタラ宮も描かれている。こういう仏画は、生涯の事跡を一枚に詰めている。上の方に縁のあった強い仏、先生が描かれている。


ポタラ宮の赤宮部分。赤宮とはダライラマ五世があまりにも偉大だったので、彼の事跡を検証して彼の遺体をミイラ化して祀っている、それを中心にして彼をお祀りするために建てられたのが赤宮。

ダライラマ14世のブロマイド。現在ももちろん観音菩薩の化身としてチベット人に敬われている。1959年に亡命されてから以降、非常に苦しい時代を生きてきたが、一度として武力で闘争するとか他人の悪口を言うとか、徹頭徹尾そういうことがないので、チベット人は観音菩薩様であると思っている。

ノーベル平和賞受賞したとき、ダライラマは最後に、「この空間が存在するかぎり、命あるものが存在するかぎり、私はこの地に留まって、命あるものの苦しみを取り除こう」というお祈りを唱えた。このお祈りはチベット人の普通の教典の中にも入っていて、みんな知っている。
これは、ダライラマが菩薩であり、チベット人は菩薩であろうとするのを理想的な人間像だと考えているが、チベット人がいるかぎり、なんとかチベット人の苦しみを取り除いていこうという彼の決意は、太古の昔の観音菩薩の誓いと同じで、チベットの歴史の最初からその願いが続いているということになる。

セブンイヤーズインチベット、クンドゥンを見ると、ポタラ宮からダライラマが望遠鏡でラサの街を見下ろすシーンが出てくる。これは史実だが、好奇心旺盛な男の子が街を眺めて喜んでいるのではなくて、チベット人はあの丘の上にいつも、太古の昔からチベットを導いてくれる観音菩薩が現れて、自分たちを見守ってくれているという認識がある。ダライラマが望遠鏡を向けると、みんな手を合わせてお辞儀する。ダライラマに見守っていただいているという感覚。
現在そのダライラマがいらっしゃらなくなった。

1936年、スペンサー・チャップマンの写真。古いポタラ宮。
チャクポリの丘から撮影。ポタラ宮の向かい側にある聖なる丘。
マルポリの丘は赤い丘、観音の丘。チャクポリは文殊様の丘。17世紀、ダライラマの転生譜を編んだ5世の摂政サンギ・ギャンツォがチャクポリにチベット医学の学校を建てた。当時チベット医学大学の最高峰。当時お寺として機能しているからチベットホルンを吹いている人も写っている。
ショルといわれる職人村が写っているが現在なくなっている。このあたりは観光地と整備されてほとんどなくなっている。
沼地の部分は今は共産党の建物でいっぱい。
今チャクポリは全部破壊されたテレビ塔しかないという悲しい状況。

昔は仏塔をくぐってラサに入った。この仏塔の意味は聖なる二つの丘をつなぐ尾根のトンネル。
自動車道路をつくるために一端壊されたが、最近復活した。

ポタラ宮前の広場。ここでいろんな国家式典が行われている。昔はパーティーが行われるような沼地だった。今はヒマラヤを記念したモニュメントがある。しょーもないものが建っている。このあたりもしょーもない建物が建っちゃってどうしょうもない。

1936年の南からみたラサ。ポタラ宮、ジョカンの間は草原。歩いていける距離。これがキチュ川。ちいさな街だった。
1999年、家がみっちり建っている。2006年鉄道ができると、高層ビルが。歴史的興味があるので、誰か毎年定点撮影してその変化がわかるようにほしい。

ダライラマ法王の存在はチベット史と密接にリンクしていて、この歴史があるかぎりチベット人は他民族がどうこうするとかいうことは思いもつかない。
この歴史的な話はチベット人は学校で教わることはない。チベット亡命政府も批判されるので13世紀そのままの、ここまでの教え方はしなくなっている。
しかし13世紀から書かれ続けている歴史書と、チベット人の認識はついこの間まで一致していた。そういうことを信じて歴史を紡いできた人たちだから、ダライラマもソンツェンガンポの時代は王様だった。中世の時代には僧侶になって現れる。チベット人が仏教徒として十分立派になってきたので、僧にして王であるダライラマ法王という政俗一致の存在が現れた、というように彼らの中では歴史が進化していって仏教国として完成していっているという認識がある。
だから、そこに「おまえたちは間違っている」という人たちが入ってきて、ある意味では遅れていたし間違っていたのだろうが、彼らが19世紀までもっていた歴史観まで忘れ去られてしまうのは寂しい話なので、みなさんにご披露させていただいた。


あと2回ぐらい続きます。
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「チベット・砕かれた仏の国」
野町和嘉(写真家)

講演で使用した写真のいくつかは野町氏のサイトにある
http://www.nomachi.com/gallery_detail10.cfm?OrderID=37
http://www.nomachi.com/essay_detail10.cfm?OrderID=99


チベットに興味をもったきっかけは、毛沢東の長征。
長征のクライマックスはチベットの地。そこを取材しようと思って最初に行った。
わずか1日で標高3000mのチベットに到達する。
中国の泥の世界のそばに、こういう大草原、雄壮な世界があるというのは衝撃だった。

これは夏の祭りで、ラマを迎えている遊牧民。

長征では、坊さんたちが逃げたあとのチベットの寺を占拠して休憩しながら北の方にいくが、その寺という寺が一つもなくなっている。

以前チベットで手に入れたおもしろい本がある。
「西蔵自治区画集」
前言には、僧侶地主貴族によって農奴が牛馬のごとく働かされていた。それを毛沢東が解放し、「毛主席の恩はヒマラヤより高く、ヤルツァンポ川よりも永遠。チベットの民は永遠に忘れない」とある。

「チベットの封建農奴制度からの解放」という建前は今もまったく変わっていない。
変えようがない。訂正したら侵略戦争だと認めることになる。

その本には、張国華司令官と笑顔の僧侶の写真。カタをかけるシーン。

毛とアボ・ガワン・ジグメの写真
チベット政府は条約を結ぶ許可を出していないのに、こういう裏切り者を毛沢東のもとに差し向けている。ダライ・ラマが選任した4人の代表が立ち会っている。チベットを中国に売り渡すことにサインしている。
チベットは如何に無謀であったか。そういう人間をわざわざ北京に送り出さなければならなかったチベットの事情がある。孤立し、外の世界とほとんど交流がなく、ダライ・ラマが成人するまでは摂政が取り仕切る。私腹を肥やす、権力闘争、国のことなんかほとんど考えていない。かなりお粗末な政治体制。
ダライラマ、9代9才、10代21才、11代18才、12代19才で亡くなっている。おおかた毒殺だと言われている。13代は57才まで生きた。
これを見る限り、ダライラマ制度は政治的に機能してたんだろうか、という疑問をもつ。
ほとんどダライラマ不在のまま、乱れた政治が続いていたんじゃないか。


西蔵公路、??公路の二つの道をつくって、本格的な侵略を始めた。
その道路の開通の写真?

封建的な文書、経典を焼却している写真
手を合わせている僧侶も写っている。

こういうのを見ると、毛沢東主義と仏教の宗教戦争。

ジョカン寺の写真。
人民解放軍の兵舎となった。
6000の寺院のうち残ったのは8個所。セラ、デブン、ギャツェノ、タシルンポ…
今我々が見ているのは80年代に再建された寺。

西チベットのトリン寺の写真
徹底的に壊されている。

チャパラン?に二つの寺がある。
そこの観音菩薩の写真。
銃弾を受け破壊されている。胸元が破られている。そこに宝物があった。
http://www.nomachi.com/essay_detail10.cfm?ItemID_b=549&orderID=99
48年か49年にインドの女流写真家が撮影した写真で原型がわかる。


破壊にはチベット人も相当関わっている。僧侶も破壊に仕向けられている。

ガンデン寺。ここに工業の材料にされるはずだった破壊された仏像が返された。
90年前後は、大きなお寺の裏にまわると、仏像などの残骸がたくさんあった。

四川省の西で、漢人とチベット人のトラブルがあった。
漢人の女性が生きたドジョウを路上で売っていた。
チベットでは魚は人の生まれ変わりだと考えられているので、チベット人は生きたドジョウを買い取って川に逃がした。漢人の女性は「ここの川の水は冷たいからそんなことをしても死んじゃうよ」と笑っていた。

デルゲ。チベット大蔵経の版木。3個所にチベット大蔵経の版木があったが、ここだけに残った。

東チベットからラサへの巡礼の写真。約4年かかる。
この人たちを見ていると、祈ることが仕事のよう。
http://www.nomachi.com/gallery_detail10.cfm?OrderID=37

東チベットの草原の写真。一番豊かな土地。4700mくらいの夏の放牧地。
チベットの大地は何千年かけて形成された腐植土の土地。これを剥がすと再生は不能。
チベット仏教の環境意識が守ってきた。

鳥葬の写真。道路脇で解体していた。11才の少年が落馬で死亡。
衝撃的だった。

他にも多数の写真を紹介していたが省略。


野町氏の写真展が9月にある。
http://www.nomachi.com/Info_ex.cfm

 

この項、あと3回続きます。
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