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日本はチベットから多くのことを学ぶことができる。優れた精神文化や深い歴史からだけではなく、中国に支配された経緯と命がけの抵抗運動から、我々が多くのことを学ぶべきだ。チベットが自由になるということは、日本が自由になるということだ。――このサイトの趣旨にご賛同いただける方は、サイト内の文章をご自由にご利用ください
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以下は今日行ってきたウイグル問題の講演の記録です。
今指が腫れていて、全部入力するのにちょっと時間がかかりそうです。
イリハムさんの発言は、自然な日本語になるように少し手を加えています。


2009年9月6日 フォーラム色川 緊急特別講演会

「日本ウイグル協会会長が激白する!いまウイグルはどうなっているのか!
中国はウイグルで どんなことをしているのか!」


日時 2009年9月6日(日)午後1時半~4時35分
会場 中野サンプラザ 7F研修室10 
講師 イリハム・マハムティ氏 (世界ウイグル会議日本全権代表・日本ウイグル協会会長)
主催 フォーラム色川




イリハム・マハムティ氏

みなさんこんにちは。
日本ウイグル協会のイリハムと申します。
ウイグルの、中国語でハミ、ウイグル語でコムルという町で生まれた者です。
私が生まれた町のメロンが中国でとっても有名で、旅行でも有名な所であります。


ハミメロン
 

 

まず、ウイグル人と日本人は、昔からの親戚関係がある、というところから始めたいと思います。

なぜなら私たちは、言語が非常に近い。
最近出版された「騎馬民族がもたらした日本のことば」という本があって、その中で、私たちのたくさんの言葉がまったく同じである、と。
私たちは、同じくウラルアルタイ言語系で、ウイグル人は日本語の単語だけを覚えれば、自分の文法で日本人と話せばだいたい通じます。

それから、日本に対して、ウイグル人もそうですし、中央アジアのトルコ系民族は、非常に親しい感じがするんです。

日本の方々がウイグルに旅行にくると、ウイグル人は中国人と間違います。でも、「私、日本人だよ」と言ったら、ウイグル人の態度は180度変わります。
中国人の旅行者の場合は、いろいろと大変なことが起こるからです。ですから、中国人の旅行者はあまり歓迎されません。
中国人の旅行者が行ったところは、かならずゴミでいっぱいになります。
みんな、それがちょっと嫌なんですね。
日本人の旅行者は、自分のゴミは捨てるところに捨てます。そういう小さい面でも、ウイグル人は日本人のことを好きになります。

ウイグルの歴史
ウイグル民族のことをまずみなさんにお話ししたいと思います。
ウイグルという言葉は、「団結」「連帯」という意味です。
ウイグルという集団は、一番最初はモンゴル高原で、ウイグル帝国を作ったんですね。国を作ったんです。遊牧民族としては、その時期あまり考えられないことなんですけれども、そういう時代がありました。

モンゴル高原で国をつくり、その後、いろんな戦争があり、敗れて、国も亡くなって、主な集団は、モンゴル高原から西へ西へと、今のウイグル地域に入りました。一部は、今の中国の甘粛省の黄河の西に東ウイグル帝国を作ったんです。こちらで一つ帝国をつくり、今のウイグル地域でももう一つ国をつくり、それが分裂したり、また一緒になったり、という時代がありました。

でも今のウイグル人は、モンゴル高原から来た人々が主体となっているのかというと、まだ謎なんです。
なぜなら、その集団がウイグル地域に入ってくる前に、すでに農業をしていた集団がいたんですね。

この二つの集団が、その後混合した可能性が非常に高いです。
まだそこまで証明されていませんが、研究されているところです。

1917年にソ連ができたとき、民族を区別するために各集団に名前を付けた、というのはあまり信じられない話です。何百年も前からウイグルという国、王国があったのですから。

この地域、初めて清の勢力に入ったのは1700年頃です。でも一時的に治めましたが、すぐにウイグルの軍隊が清の軍隊を追い出したんですね。追い出した後、一部の地域が清と朝貢関係にありました。
1850~60年代になって、ウイグルのある人物(ウズベク人という説もあります)が、新しい国を作りました。長続きしませんでしたが、ウイグル地域全体を完全に支配し、一部の朝貢関係もなくなりました。

このことを受けて、清の一部の人々が、あの地域は遠いからもういい、と言ったが、それを反対した中国人がその土地を取り戻さなければならない、と1870年代後半、再び軍によりその地域を治めて、1884年に初めてその地域に新疆という名前をつけました。
新しい領域という名前で、この地域を治めたんです。

その後も、清が直接支配したかというと、直接支配していません。
ウイグルでは、ほとんどのオアシスに一人の王がいました。その王たちに毎年あるいは3年に1回、朝貢する義務をつくっただけなんです。

清が滅んで、中華民国となり、中華民国の軍隊が少しだけ駐屯していました。

国民党政府が支配する軍隊がいましたが、1933年11月12日、カシュガルで初めて近代国家として東トルキスタンイスラム共和国を立ち上げたんです。
今日も何人かの方が、我々の旗のTシャツを着ていますが、その旗はそのとき初めて国の象徴として使われました。

この国は4,5カ月しかもちませんでした。
その理由は、旧ソ連と話を付けていなかった、ソ連の承認をもらっていなかったというのが、大きな理由になってしまったんです。

なぜなら、ソ連は、ウイグルのとなりのすべてのトルコ系民族の国を治めているので、彼らの目の前で、一つのトルコ系の独立した国が出るということは、この周辺の国々にも影響を与えて、再び独立運動が始まる可能性が非常に高くなる、という理由が大きいと私は思っております。

その後、ウイグル人はもう一度、世界に独立を宣言するためにがんばってきました。
ふたたび、ウイグルのイリ(カザフスタンと国境を接し、遊牧民が多い)というところで、ウイグル人、ウズベク人、カザフ人、こういう人々が連携して、東トルキスタン共和国を、1944年、同じく11月12日につくりました。

ここで注意すべきことは、「イスラム」という言葉を捨てたことです。
一つは現代的な考え方、一つはこの国をつくるときのリーダーたちは、ほとんど旧ソ連のモスクワに留学した者が多かったんです。共産主義思想の教育を受けた人が少なくないと思われます。

それでこの国は1949年までありましたが、残念ながら、旧ソ連と中国が、モンゴル共和国と東トルキスタンを取引して、モンゴルを独立させ、ソ連圏に組み込み、東トルキスタンを中国に譲る、ということで、二つの大きな勢力の取引の中で、私たちは中国の版図の中に入ってしまいました。

ソ連、中国、東トルキスタンの3カ国は、条約を作ったのですね。その内容はまだはっきりしていないけれども、それは三カ国が一緒に発表すると約束したそうです。
ですからウイグルのリーダーたちは、ウイグル人たちにそれを伝えなかったんです。
この条約ができた翌日、ウイグルのリーダーたちが北京に飛行機で向かいました。
二日後、飛行機が墜落したという連絡があり、我々の国の6人の指導者たちが、死んでしまいました。
そのとき、事故で死んだという話でしたが、遺体を誰にも見せずに埋葬されました。

これが一つの謎で、最近になって、ロシアの秘密監獄で刑務官だった人が、回顧録を書き、ウイグルの指導者たちがその秘密の監獄で亡くなったことを書いてあります。

その条約は、今まで世界に文書が公開されていません。
たぶん、それが公開されたら、中国共産党はそこを支配する正統性がその瞬間になくなると思います。

もちろんロシアと中国の政権がつながっていれば、この文書をなかなか公表しないと思います。

その時期から私たち、中華人民共和国の国民になってしまいました。




http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/142/ へ続く


 

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