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http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/29/ の続き
「チベット人の暮らしと文化」 渡辺一枝氏(作家)
今日はチベットの農業地帯の人たちについてのみお話しする。
チベットは仏教とまったく切り離して考えることはできない。
ボン教とも非常に結びついた生活をしており、山川湖には聖なるものが宿っていると考えている。
最初に写真を10枚ほど。
農作業を始めるまえにお香を焚いて、豊作を祈っている写真。
ヤクにスキを引かせている写真。ヤクの頭の赤い飾りも豊穣を願うもの。
大麦が実っている写真。かかしを立てている。
豊作の感謝祭。刈り入れ前にお坊さんを呼んで、畑でお祝いをしている。
脱穀作業。家の屋上で。殻竿をつかって脱穀することや、動物を使って脱穀することもある。
風選作業。自然の風でやっているが、最近は大きな扇風機を使うこともある。
収穫後、脱穀が終わり、お祈りをする。
秋になると、牧畜の民と農民が交易をする。その風景。
土地山川湖などに彼らは聖なるものが宿っていると考えている。
4300mくらいのところでも大麦を作っている。
1987年初めてチベットにいった。高野山の僧侶たちとチベット仏教の寺を見学するツアー。
とてもつまらなかったので、休憩時、仲間から外れてポタラの西の畑にいった。チベット人たちが畑をすきおこしていた。私も一緒にスキの歯を振るわせてもらった。そこは3800mほど。
ブータンの国境付近はお米もできる。作物はもともと大麦、ジャガイモ、トウモロコシ、マメ、カブ、そういうものをつくっていた。87年には小麦の畑もあった。大麦はチベット人の主食ツァンパの材料。小麦も少しは作っていた。でも59年にラサが中国に支配されて、あるいはそれ以前49年中華人民共和国建国されて50年代に中国軍がラサに入っていった、その時点ですでに大麦畑が小麦に転換させられていった。
漢民族の主食は小麦。東北の方はお米も食べるが。
87年に行った後、小麦畑がどんどん増えている。小麦だけではなく、野菜畑も増えている。90年代の終わりくらいから、ラサの近郊ではビニールハウスがすごく増えている。もともとチベット人の畑だったが漢人がどんどん流入して、すごく安いお金で畑地をチベット人から借りる。そして自分たちが食べる野菜を作っている。安いお金で土地を買い取って、月賦で払うといって払わずに逃げる漢人もいるということをよく聞いた。
最近、もっとひどいのはスイカ畑が増えている。4年前までラサの近郊でも交易の風景があったが、2006年鉄道が開通して、駅の周辺を買い取って、交易の風景が見られなくなった。
私は日本では菜食主義だが、外国ではその地の食べ物を美味しくいただく。チベットのジャガイモがとても美味しい。いつも美味しいというので、チベットに行くと知人がいつもゆでたジャガイモをどっさりもってきてくれる。
ラサの街でも田舎でもジャガイモをよばれる。美味しい美味しいと言っていると、日本にジャガイモはないのか、と言われる。「こんな美味しいジャガイモはないんだよ」と答える。
このジャガイモは自家用だという。それを聞いたのは2001年。
どういう意味と聞くと、政府が農薬を使うよう指示しているという。ある面積ではこれだけの量を使えと言う。その農薬を買い取らなければならない。自分たちは使いたくないので、自分たちが食べる分の畑では農薬を使わない。だから美味しいんだろう、ラサの街で買ったジャガイモはおいしくないだろう、と言う。
チベット人は土地も、水も命も大事にしている。農薬なんていうものは彼らの信条からは使いたくないが、今は使わされている。
大麦の畑が小麦にかえられ、畑がどんどん漢人の手に渡った。昔は自分たちが食べるものはほぼ自給自足できていたが、今は資本をもった人が買い占めて、それを小売りするようになった。それで現金がなければやっていけなくなり、スイカをつくるようになった。2000年代になってから、中国人旅行者がものすごい勢いで増えている。世界で一番スイカを好きなのは中国人。
ほんとに中国人はよくスイカを食べる。それで大麦を作っていた畑でスイカを作り、道ばたで売ると、即現金が入る。
とても悲しいことだが、大麦畑を小麦畑に変えたのは、最初の頃は強制的かもしれないが、最近は強制的ではないが否応なしにチベット人自らがそうしてしまっている。手っ取り早く現金を手に入れるにはスイカを作るしかないと考える。
スイカを作れと強制せずにうまいやり方で、作らせる。それがとても悲しい。
畑をスキおこすときに、ヤクを使わず、どんどん機械に変わっている。スキの歯も中国式のものになっている。中国式は土を深く掘り起こす。
牧畜地帯の人たちの家畜は、専業の人に、屠ってもらい、その季節に食べる肉を手に入れていた。今はヤクの肉は大変美味しいということで、放牧ではなく、飼育場で育てられ、食肉工場で解体される。チベット人たちも今は肉を工場で作られていると言っている。
彼らの食生活は今はこのように変わってきている。
ジャガイモの原種はアンデスなので、チベットにも合うので、美味しい。
カブは新鮮なものはスープにしたり、皮をむいてそのまま食べたり、干して家畜のエサにする。カブをヤクのミルクと黒砂糖でよく煮て、そのあと燻す、と携帯食になり、巡礼の途中でそれをしゃぶると元気になる。
たくさんカブをもらったので、日本に持ち帰り、亡命チベット人に分けてあげた。チベットを離れて40年ぐらい経っている人。それを見せてもわからなかったが、口に含んだとたん、サーッと記憶が蘇り、「アーッ!これはなんとかだー!」と言った。
チベット本土にいる人も大変な目にあっている、心の自由がないが、、亡命した人も、物を言えても、チベットを変える力にはならず、つらい状況にいる。
先のお三方のお話で、今年の3月に起きたことだけでなく、長いスパンのチベットの状況がわかったと思うが、どうかオリンピックが終わっても、チベットから目を離さないでいただきたいと思います。彼らは必死になって声をあげた、その声を無にしてしまうわけにはいかないと思います。お願いします。
http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/31/ へ続く
「歴史からひも解くチベット、中国、モンゴルの関係」
早稲田大学教授 石濱裕美子氏
チベットの人たちが自分たちの国のことをどのように考えているか、入門的な話。
幸いにも壊されずにすんだ、14世紀のギャンツェの寺院にある観音像。真ん中に4本手の観音様。右には緑ターラ菩薩、左には白ターラ菩薩がいる。このお三方がチベットの歴史において非常に重要な意味をもつ菩薩様。
阿弥陀様が仏様になられて、仏になると輪廻はしなくなり、この世の我々からは遠い存在になる。
阿弥陀様の中の慈悲、愛と哀れみの心が人間を救おうとするときに、この世界で観音様のお姿をとる。この写真の観音様の上には阿弥陀様の顔がある。阿弥陀様がこの世界で働くときのお姿が観音様で、そのシンボルは蓮の華。菩薩というのは仏教では、修行を重ねて仏になるところまでいっているにもかかわらず、我々が苦しんでいるのを見るに見かねて、この世に留まって人々を救ってくださる。しかも仏になるほどの方なので、超常的な力をもつ。
13世紀以降のチベットの史書には観音様についてこう書かれている。
観音様は、太古の昔、チベットに現れて、すべての命あるものたちを悟りに導こう。それが実現するまでは楽な思いをしないという誓いを立てる。チベットにおいて、人類の発生もすべて観音様のお力によるもので、7世紀、そろそろチベット人も仏教を学ぶだけの精神性をもつようになったと判断され、王の姿になって現れた。
写真の真ん中の像がソンツェンガンポ王。開国の王としてチベットを歴史時代に導いた王様。向かって右の像が、ネパールからきた妃。左が中国からきた文成公主。この二人が白ターラと緑ターラの化身と言われている。ソンツェンガンポ王の頭の上には阿弥陀様がのっており、ターバンで隠していたと13世紀の史書には書かれている。
史実としてソンツェンガンポ王は実在するが、チベット史の重要な一コマなので、13世紀以降神格化される。この王はマルポリの丘に宮殿を建てる。現在ポタラ宮が建っているところ。
チベットを混乱させる元となっているのは夜叉女。チベットの国土の上にいる夜叉女が動くと戦争や病気が起きて、不穏になる。だから夜叉女が動かないように両手両足の上にお寺を建てる。夜叉女とは仏教が伝わる前の人の心を表している。みんなエゴイスティックで自分のことしか考えなくて、自分の地域、自分の家族、一族のことだけを考え、チベットは混乱していた。
そこに仏教を導入してもっと高い視点で、各々がたるを知って、自分の幸福というのは他人を敵にして戦うことによって得られるのではなくて、自分の心を平安にすることによって得られる、という仏教的な考えを持ち込むことで、チベットが幸福、平和になっていったということが開国神話に描かれている。
中国からきた妃がラモチェ寺を建て、ネパールからきた妃がトゥルナン(ジョカンと呼ばれている釈迦堂)を建てた。この二つの寺の門前町がラサの街として、現在見るような姿に発展する。
街の真ん中にあったトゥルナン、釈迦堂は歴代の為政者が崇拝して飾り立てられてきた。
現代人が書いたチベット上の夜叉女の絵。夜叉女の真ん中にラサがある。心臓に杭を打ち込むような形で、最後に夜叉女の動きを止めている。両手足、肘ひざ、付け根全部で12個所に寺を建て、最後にラサの都が築かれたという、歴史的な神話を絵にしたもの。
パリのギュメ美術館所蔵のラサにある僧院をすべてまとめて描いた仏画。
上にセラとガンデンとデブンがある。ラサの街中が下の方にまとまっていて、画面より上がポタラ宮で、画面のこっちがトゥルナン寺、こっちがラモチェ寺。
もともとソンツェンガンポ王の王宮があった上にダライラマ法王がポタラ宮を建てた。
ラサの街の中核に、7世紀の3人の事跡が生きている。
89年のジョカン寺の写真。昔はびっしりその周りに貴族の館が建っていた。中国がきてからは前に広場が作られて、整理されてしまった。しかし今なお7世紀の碑文がお寺の前に残っていたりする。屋根の上のゲンツェン?と言われる木でできたものに、18世紀の貴族の名前が入っている。
お寺の中身は全部壊されて、宗教的でないものが若干残っただけだが、それでも歴史的なものが重々重なっていて、すごい一角です。
お寺の前にある碑文は、中国とチベットが戦争したときに、もうこれから戦争は止めましょう。チベット人はチベット人の領域を守り、中国人は中国人の領域を守って平和に暮らしましょう、と書いてある。
この碑文は当時、唐の長安とトゥルナンと、国境地帯に建てられたが、これだけが残った。
トゥルナンのお釈迦様が11才のときの像。お釈迦様は出家されていないので飾りがいっぱいついている。この飾りは歴史的に、モンゴルの王侯アルタン・ハーンやダライ・ラマ5世など、チベットで名前を残した為政者は、必ずトゥルナンの復興に名前を残している。
この写真は89年なのでまだダライラマの写真が残っている。今は全然だめ。
ラモチェ寺の3,4年前の写真。先ほどのギュメ美術館のタンカとほとんど形が同じ。
ここで私が何も言わずにカメラを構えて写真を撮ったら、お坊さんにすごく怒られた。私はどう見てもチベット人には見えないから、スパイかなんかと間違えられたようだ。物凄く怒鳴られたのでここのお坊さんは気が荒いな、と思ったら、案の定今年の三月に蜂起していた。
お渡しした資料にダライラマの転生譜がある。17世紀ぐらいにこの転生譜が確定する。
ダライラマの転生譜はチベット史と密接にリンクしている。
お釈迦様の時代から転生が始まる。最初はもちろん観音菩薩様。インドでの前世が36代続き、古代チベットに入ってから、37代目から46代目まで続く。37代のニャーティツェンポ王がチベットに登場した最初の王様。インド王家の末裔がチベットに亡命。チベットのボン教徒に推戴された初代王。
その後何代か王がいて、43代目ソンツェンガンポ王が国を統一。マルポリの丘に宮殿を築き、チベットを統一し、この頃、他の国にまで記録されるチベットという国の歴史時代が始まる。
チベット文字を制定して、ネパールと唐から妃を迎え、両国の仏教をチベットに導入。
この時代は後にすごく理想化されて、この王様の時代には仏教に則った政治が行われていたというふうに思われ、その後のチベットの為政者はこの時代を再現することが目標になる。
9世紀のティソンデツェン王。古代チベット最強の王。チベットで初の僧院サムエを建立。チベット人からなる現在世界に散っているチベット僧団の最初を開いた。
この時代、中国では安史の乱が起き、チベット人はトルコ人と組んで長安を占領。
考えようによってはこの時代、チベットは中国を侵略していた。そういう時代もあった、と遠い目になってしまう。
46代ティレルパチェン王。世界の2/3がチベットのものであったと言われるぐらい、強力だった。その後まもなくダルマ王が出てきて、仏教を弾圧。仏教の弾圧とともに、古代王国が崩壊。
ソンツェンガンポから始まってダルマ王に終わる時代がチベット人にとって理想の時代として、その後の長い分立時代に語られることになる。
宗派分立の時代。チベット史を超簡単に考えると三段階になる。古代統一の時代、中世分立の時代、近世ダライラマ統一政権の時代。
47代目ドムトン。ダルマ王が弾圧して仏教がなくなったとき、仏教を立て直そうと、インドから、アティーシャというインドのディクラマシーラ僧院の僧院長が呼ばれた。その弟子がチベット仏教の基礎を作った。それがドムトン。この方を慕う人の派がカダム派。以後の数派現れるチベットの宗派の母体になる。
55代サチェン・クンガーニンポ。サキャ派の祖師。
56代シャリンポチェ。ツェル派カギュ派の祖師。
という風に現代にまで伝わる他の宗派の祖師が組み込まれていて、その時その時で活躍した方がダライラマの前世に組み込まれている。17世紀の転生譜だからこういうことができるとも言える。
62代からダライラマ体制がはじまる。ダライラマという一人の方が亡くなると次の方を探すという制度が始まるのは63代目ぐらいから。
ダライラマの登場を助けたのはツォンカパの宗派で、ダライラマはツォンカパが創始したゲルク派の高僧。ツォンカパは分裂していたチベットのいろいろな物の考え方、修行法、教育法を極めて天才的にまとめ上げた。教育システムをきちんと整備した。僧院の秩序を整然としたものにした。教義も、密教やっている人は密教だけ、顕教やっている人は顕教だけ、多様だったチベット仏教のシーンを塗り替える。どこにいってもツォンカパの顔があるが、他の宗派を圧倒していくだけの力と教義があった。その弟子がダライラマ1世。
ゲルク派が拡大するとともにダライラマも力を持つようになる。
ダライラマ3世の時代、ゲルク派はモンゴルにまで進出。
絵の右下の小さい人物はアルタン・ハン。南モンゴルを統一した英雄。この人がダライラマに仕えることで、以後モンゴルに怒濤のようにチベット仏教が入っていく。
この絵の人物の大きさの違いが、二人の力関係を表している。
17世紀、ダライラマ5世の時代。ダライラマ政権とゲルク派がチベットの統一に成功する。
ゲルク派の背後にあったモンゴル軍の力もあるが、宗教的な権威が強くて、モンゴル軍はあくまでもボディーガードだった。
ダライラマ5世が手にしているのは法輪。歴代のダライラマの絵でこれを手にしている人は強力な世俗的な権力をもっていた。5世以前は法輪を持っていない。即位前に亡くなった若いダライラマも持っていない。5世は法輪を持つにふさわしい生涯をおくった。
彼が行った一番すごいことはマルポリの丘にポタラ宮を建てて、自らをソンツェンガンポ王の再来であり、観音菩薩の示現であることを示されたこと。
ダライラマ5世の肖像。手に蓮の華を持っている。これはダライラマが観音様であることを示している。モンゴル王侯グシ・ハンも描かれている。この王侯は代々青海地方に子孫を駐留させてダライラマのボディーガードをさせている。
ポタラ宮も描かれている。こういう仏画は、生涯の事跡を一枚に詰めている。上の方に縁のあった強い仏、先生が描かれている。
ポタラ宮の赤宮部分。赤宮とはダライラマ五世があまりにも偉大だったので、彼の事跡を検証して彼の遺体をミイラ化して祀っている、それを中心にして彼をお祀りするために建てられたのが赤宮。
ダライラマ14世のブロマイド。現在ももちろん観音菩薩の化身としてチベット人に敬われている。1959年に亡命されてから以降、非常に苦しい時代を生きてきたが、一度として武力で闘争するとか他人の悪口を言うとか、徹頭徹尾そういうことがないので、チベット人は観音菩薩様であると思っている。
ノーベル平和賞受賞したとき、ダライラマは最後に、「この空間が存在するかぎり、命あるものが存在するかぎり、私はこの地に留まって、命あるものの苦しみを取り除こう」というお祈りを唱えた。このお祈りはチベット人の普通の教典の中にも入っていて、みんな知っている。
これは、ダライラマが菩薩であり、チベット人は菩薩であろうとするのを理想的な人間像だと考えているが、チベット人がいるかぎり、なんとかチベット人の苦しみを取り除いていこうという彼の決意は、太古の昔の観音菩薩の誓いと同じで、チベットの歴史の最初からその願いが続いているということになる。
セブンイヤーズインチベット、クンドゥンを見ると、ポタラ宮からダライラマが望遠鏡でラサの街を見下ろすシーンが出てくる。これは史実だが、好奇心旺盛な男の子が街を眺めて喜んでいるのではなくて、チベット人はあの丘の上にいつも、太古の昔からチベットを導いてくれる観音菩薩が現れて、自分たちを見守ってくれているという認識がある。ダライラマが望遠鏡を向けると、みんな手を合わせてお辞儀する。ダライラマに見守っていただいているという感覚。
現在そのダライラマがいらっしゃらなくなった。
1936年、スペンサー・チャップマンの写真。古いポタラ宮。
チャクポリの丘から撮影。ポタラ宮の向かい側にある聖なる丘。
マルポリの丘は赤い丘、観音の丘。チャクポリは文殊様の丘。17世紀、ダライラマの転生譜を編んだ5世の摂政サンギ・ギャンツォがチャクポリにチベット医学の学校を建てた。当時チベット医学大学の最高峰。当時お寺として機能しているからチベットホルンを吹いている人も写っている。
ショルといわれる職人村が写っているが現在なくなっている。このあたりは観光地と整備されてほとんどなくなっている。
沼地の部分は今は共産党の建物でいっぱい。
今チャクポリは全部破壊されたテレビ塔しかないという悲しい状況。
昔は仏塔をくぐってラサに入った。この仏塔の意味は聖なる二つの丘をつなぐ尾根のトンネル。
自動車道路をつくるために一端壊されたが、最近復活した。
ポタラ宮前の広場。ここでいろんな国家式典が行われている。昔はパーティーが行われるような沼地だった。今はヒマラヤを記念したモニュメントがある。しょーもないものが建っている。このあたりもしょーもない建物が建っちゃってどうしょうもない。
1936年の南からみたラサ。ポタラ宮、ジョカンの間は草原。歩いていける距離。これがキチュ川。ちいさな街だった。
1999年、家がみっちり建っている。2006年鉄道ができると、高層ビルが。歴史的興味があるので、誰か毎年定点撮影してその変化がわかるようにほしい。
ダライラマ法王の存在はチベット史と密接にリンクしていて、この歴史があるかぎりチベット人は他民族がどうこうするとかいうことは思いもつかない。
この歴史的な話はチベット人は学校で教わることはない。チベット亡命政府も批判されるので13世紀そのままの、ここまでの教え方はしなくなっている。
しかし13世紀から書かれ続けている歴史書と、チベット人の認識はついこの間まで一致していた。そういうことを信じて歴史を紡いできた人たちだから、ダライラマもソンツェンガンポの時代は王様だった。中世の時代には僧侶になって現れる。チベット人が仏教徒として十分立派になってきたので、僧にして王であるダライラマ法王という政俗一致の存在が現れた、というように彼らの中では歴史が進化していって仏教国として完成していっているという認識がある。
だから、そこに「おまえたちは間違っている」という人たちが入ってきて、ある意味では遅れていたし間違っていたのだろうが、彼らが19世紀までもっていた歴史観まで忘れ去られてしまうのは寂しい話なので、みなさんにご披露させていただいた。
あと2回ぐらい続きます。
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http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/27/ の続き
「チベット・砕かれた仏の国」
野町和嘉(写真家)
講演で使用した写真のいくつかは野町氏のサイトにある
http://www.nomachi.com/gallery_detail10.cfm?OrderID=37
http://www.nomachi.com/essay_detail10.cfm?OrderID=99
チベットに興味をもったきっかけは、毛沢東の長征。
長征のクライマックスはチベットの地。そこを取材しようと思って最初に行った。
わずか1日で標高3000mのチベットに到達する。
中国の泥の世界のそばに、こういう大草原、雄壮な世界があるというのは衝撃だった。
これは夏の祭りで、ラマを迎えている遊牧民。
長征では、坊さんたちが逃げたあとのチベットの寺を占拠して休憩しながら北の方にいくが、その寺という寺が一つもなくなっている。
以前チベットで手に入れたおもしろい本がある。
「西蔵自治区画集」
前言には、僧侶地主貴族によって農奴が牛馬のごとく働かされていた。それを毛沢東が解放し、「毛主席の恩はヒマラヤより高く、ヤルツァンポ川よりも永遠。チベットの民は永遠に忘れない」とある。
「チベットの封建農奴制度からの解放」という建前は今もまったく変わっていない。
変えようがない。訂正したら侵略戦争だと認めることになる。
その本には、張国華司令官と笑顔の僧侶の写真。カタをかけるシーン。
毛とアボ・ガワン・ジグメの写真
チベット政府は条約を結ぶ許可を出していないのに、こういう裏切り者を毛沢東のもとに差し向けている。ダライ・ラマが選任した4人の代表が立ち会っている。チベットを中国に売り渡すことにサインしている。
チベットは如何に無謀であったか。そういう人間をわざわざ北京に送り出さなければならなかったチベットの事情がある。孤立し、外の世界とほとんど交流がなく、ダライ・ラマが成人するまでは摂政が取り仕切る。私腹を肥やす、権力闘争、国のことなんかほとんど考えていない。かなりお粗末な政治体制。
ダライラマ、9代9才、10代21才、11代18才、12代19才で亡くなっている。おおかた毒殺だと言われている。13代は57才まで生きた。
これを見る限り、ダライラマ制度は政治的に機能してたんだろうか、という疑問をもつ。
ほとんどダライラマ不在のまま、乱れた政治が続いていたんじゃないか。
西蔵公路、??公路の二つの道をつくって、本格的な侵略を始めた。
その道路の開通の写真?
封建的な文書、経典を焼却している写真
手を合わせている僧侶も写っている。
こういうのを見ると、毛沢東主義と仏教の宗教戦争。
ジョカン寺の写真。
人民解放軍の兵舎となった。
6000の寺院のうち残ったのは8個所。セラ、デブン、ギャツェノ、タシルンポ…
今我々が見ているのは80年代に再建された寺。
西チベットのトリン寺の写真
徹底的に壊されている。
チャパラン?に二つの寺がある。
そこの観音菩薩の写真。
銃弾を受け破壊されている。胸元が破られている。そこに宝物があった。
http://www.nomachi.com/essay_detail10.cfm?ItemID_b=549&orderID=99
48年か49年にインドの女流写真家が撮影した写真で原型がわかる。
破壊にはチベット人も相当関わっている。僧侶も破壊に仕向けられている。
ガンデン寺。ここに工業の材料にされるはずだった破壊された仏像が返された。
90年前後は、大きなお寺の裏にまわると、仏像などの残骸がたくさんあった。
四川省の西で、漢人とチベット人のトラブルがあった。
漢人の女性が生きたドジョウを路上で売っていた。
チベットでは魚は人の生まれ変わりだと考えられているので、チベット人は生きたドジョウを買い取って川に逃がした。漢人の女性は「ここの川の水は冷たいからそんなことをしても死んじゃうよ」と笑っていた。
デルゲ。チベット大蔵経の版木。3個所にチベット大蔵経の版木があったが、ここだけに残った。
東チベットからラサへの巡礼の写真。約4年かかる。
この人たちを見ていると、祈ることが仕事のよう。
http://www.nomachi.com/gallery_detail10.cfm?OrderID=37
東チベットの草原の写真。一番豊かな土地。4700mくらいの夏の放牧地。
チベットの大地は何千年かけて形成された腐植土の土地。これを剥がすと再生は不能。
チベット仏教の環境意識が守ってきた。
鳥葬の写真。道路脇で解体していた。11才の少年が落馬で死亡。
衝撃的だった。
他にも多数の写真を紹介していたが省略。
野町氏の写真展が9月にある。
http://www.nomachi.com/Info_ex.cfm
この項、あと3回続きます。
http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/29/ へ続く
JVJAチベット報告会
写真と歴史が語る隠されたチベット
~チベットに魅せられた4人の視点~
2008年7月21日、明治大学で行われた上記の報告会に行ってきた。明治大学はいつの間にか21世紀的な超近代的な大学に。過激派の看板はもうなくなっていた。
ICレコーダーで録音したので、不正確なところもあるが、テープ起こししたものを以下に。長いので何回かに分けて書きます。写真を使った説明が多いので、映像がないとわかりにくいところがあるかもしれませんが、ご容赦を。
司会進行の山本宗補氏(http://homepage2.nifty.com/munesuke/)が講演者を紹介。
石濱さんは、胡錦涛が早稲田で講演したとき、チベットTシャツを着てその上に革ジャンを来て、抗議にいったことをブログに書いている。
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-20080509.html
ダライ・ラマの成田での記者会見。記憶に残るのは、常に笑み絶やさない法王が、声が震えるような、痛みさえこもっている表現をされるところがあった。「自治とは名前だけである、自治は紙の上にあるだけである」と話されたときだ。おそらく、そのあたりを政府を通り越して、一番日本の皆さんに伝えたかった本心だと思う。ダライラマ法王がそういうお気持ちを伝えた背景というか、実情を4人の方々のそれぞれの視点で報告していただきたいと思います。
「チベット騒乱はなぜ起きたのか」
フォトジャーナリスト 野田雅也氏
1999年始めてチベットにいった。その時は何も知らなかった。
中国からチベットに入ったとき、突然変わる変わり目がある。
大変美しい光景があった。東は草原、西は砂礫の荒野。
その中で、私が一番魅力を感じたのは、素朴な人々祈りの姿。
一日の大半を祈っている。祈りが生活そのもの。
東チベットのガルンガルゴンパというところ。チベット最大の僧院の一つ。尼僧中心に8千人ほどが修行に励んでいた。俗世間から離れた山奥で僧侶だけが修行をしている。
僧侶が記録した僧院が破壊される映像。
中国は表向きは宗教の自由を認めている。法律でも認めている。しかし私が行った2001年でも露骨な宗教弾圧が行われていた。私は、その時初めてチベットが圧制下にあるということを知った。そのことをきっかけに、私は失われていくチベットを記録していこうと思った。
中国政府がチベットで行ってきたこと。
チベット人の生活、チベット人の心、 そういったものを奪ってきた。たんたんと計画的にそういう政策を行っていく。
2006年7月に開通した青蔵鉄道。毛沢東が立案、計画がなされていた。貧しい地域を豊かにしようと2000年から西部大開発が始まった。これは多くの地下資源を運び出し、チベットに多くの中国人を移住させるために使われている。鉄道建設では、漢民族の出稼ぎ労働者に様々な優遇政策をとった。低価格あるいは無償で土地を提供する。支援金が贈られる。それで開発ラッシュで一攫千金を狙う漢民族がチベットに流れ込んだ。
チベット鉄道は、まるで日本が満州鉄道をつくって開拓移民を送り込み、地元の人から土地を取り上げ、我々のものだと主張したのと同じ状況。
ラサのもっとも聖なるジョカン寺。3月に蜂起があった。
鉄道開通後、ラサの人口構成は逆転。人口35万人のうち、チベット人は15万人。
ラサ市の郊外の、草原だったはずのところに新しい街ができていた。3年前はなかった。
鉄道ができたラサだけではなく、今回チベット東部に行ったら、まったくチベットの面影がない街ができている。
漢民族が入ってくると、チベット人の土地、職業が徐々に奪われていく。
アムドから来たおばあさんは、漢民族が多い街で物乞いをして生きている。
寺を追い出されて、路上で物乞いをしている僧侶もいる。
年に1回の競馬祭の映像。みんなが楽しみにしている。お祭りはその土地の風土や習慣が凝縮されたもの。しかし、今の競馬祭。紅い旗がいっぱい見える。共産党員が出席するようになった。共産党員のためにチベット人が催し物をしているようになってきた。
入場シーンでは先頭の僧侶が紅旗を掲げ、次の人は愛国愛共団結進歩と書かれた旗をもっている。愛国教育の一環。共産党に忠誠を誓うための教育も進められている。
遊牧の様子。ヤクの写真。ヤクのフンを乾燥させて燃料にする。
遊牧民の伝統的な生活が変わってきている。2006年から本格的にチベットに導入された定住プロジェクト。特定の住居をもたない貧しいチベット人を支援するために、政府が住居を与えるというもの。数千年受け継いできた遊牧の暮らしを半ば強制的に、地域によっては完全に強制的にやめさせて、定住させ、チベット人を農耕民へと変えさせている。
集合団地。草原で遊牧をしていた人が突然こんなところに閉じこめられる。これまでは家畜を放牧していれば食べ物はあった。ヤクのミルクがあり、ミルクからチーズ、バターがつくれる。ヤクの肉も食べられる。すべての生活がうまくいっていた。しかし生産手段を失うと、生活の糧がなくなる。
私が行ったところは、強制ではなくて、共産党員が遊牧民を説得して回っていた。大変な遊牧生活をやめて、豊かなところで定住した方がいいと。家1軒あたり90万円がもらえる。大金なので、つられる人もいる。そのうち半分は住宅費としてとられる。残り45万円あるが、実はこれは言葉巧みに誘われるが、全部貸し付け。無利子だが90万円の借金を背負うことになる。家畜を売った彼らは職もない。
私も驚いたが今年4/25の人民日報で、この2年間で54万人がこれまでの伝統的な生活をやめて住宅に定住。チベット自治区の住民274万人。5人に1人は定住させられている。彼らはすべて借金を背負っている。
こうしたチベット人の管理統治がチベット全土で着々を進行している。
子供たちの写真。教育問題は重要。チベットの子供たちが通う学校は中国政府が作る。その中でチベット人は、立派な漢民族になるための教育が進められている。授業のほとんどは中国語。チベット語も教えてもらえるが、我々が英語を習うように、外国語のような扱い。彼らの教科書を見てびっくりした。小学1年生の教科書の最初のページが、共産党を称える内容。小学校の教育の中で漢化政策が行われている。(教室の壁には、マルクス、エンゲルス?、レーニン、毛沢東の肖像)。
ラサの小学校の写真。今ではチベットの親たちは積極的に中国語を教えるようにしている。家の中ではチベット語、外では中国語を使いなさいというようにしている。経済基盤が中国に握られると、中国語が話せなければ、彼らは将来、いい仕事につくことができない。子供たちは次第にチベット語と疎遠になっていく。聞くことはできても書くことができない若者たちが非常に増えている。
中国社会の中で民族の証である言語が失われつつある。
このことは民族がなくなってしまうという危機感を募らせてる。
知り合いのチベット人はこういった。「近い将来、チベットの伝統、文化は博物館でしか見られなくなるよ。土地、言葉、伝統が奪われ、もうすぐ我々は中国の中の一つの民族にすぎない存在になってしまうんだ」
多くの人がチベットが失われるという危機感を強く抱いている。
しかし、現代の中国という大きな力の中で、彼らは耐えていくしか方法はなかった。
ヒマラヤ山脈の写真。エベレストがある。平らなところは、チベット人が亡命によく使う標高6000mのナンパラ峠。毎年2000~3000人がインドに亡命。教育の問題が一番大きい。
チベットの中で行われている差別もある。漢民族にチベット人はすごく見下されている。チベット人として生きるために、自分たちの尊厳をかけて、ヒマラヤを越えていく。
親指が変色し、爪が剥がれた足の写真。彼らは氷河の上を歩き、雪を食べて逃げてくる。中国の国境警備隊に逮捕されたり、射殺される人は少なくない。クレパスに落ちる人もいる。でも危険を冒してもチベットを去らなければならない状況にある。
ダワ君19才。アムド(青海省)出身。青海湖(ココノール)でヤクの放牧をしていた。貧しかったので小学校を中退し、ヤクや羊の世話をしていた。読み書きもできないので、もう一度学校にいってやり直したい。しかし、中国占領下のチベットではそれは難しいので、亡命した。
彼の出身地、青海湖は、1964年から、87年まで原爆実験と水爆実験が繰り返し行われていた。これまで国家の機密とされてきた第9研究所の写真。この工場は、核弾頭を接合していたところ。これは、ソ連の支援によって作られた核融合の施設。
ダワ君もそういう状況で放牧していたのだろう。
あの核施設はそのまま放置されている。86年に研究員が撤退したときは、物はそのまま置き去りに。チベット人は、珍しいものがあるから、みんな取っていった。
ダラムサラであったジャンバ・タシさん。元僧侶。94年に逮捕され、12年間監獄に。「チベットに自由を!」と叫んで張り紙をしたのが原因。彼の寺は文革で破壊。80名いた僧侶が20名に減らされた。その後、さらに12名に減らされる。そして彼はお寺のために立ち上がった。12年間でものすごい拷問を受けた。最初の1ヶ月間は1日3回の拷問。殴る蹴る、極寒のグラウンドに立たされる、電気棒を口に入れられる。全身の皮膚が剥がれるかのような衝撃がある。この写真では右目を押さえているが、拷問で棍棒で後頭部を殴られたとき、眼球が飛び出し、今も右目が見えない。
他にも凄まじい拷問の話があった。大量の血液採集。火あぶり、猛犬をけしかける、女性囚(尼僧)に対しては性的暴行、避妊手術。
ケイサン?君(6才)。亡命者の1/3は子供たち。彼の将来、チベットの未来を案じて、インドでチベットのことを勉強しなさい、とお母さんたちが送り込む。
難民の子供たちが描いた絵。チベットで起きていたことを描いている。公安がダライラマの肖像を踏み絵に使い、周りの僧侶が泣いている絵。
ヒマラヤを逃げてくるときに、国境警備隊に発砲されている絵。
今年3月一斉蜂起が起きた地点。そのとき私はダラムサラにいた。とうとう始まったと思った。
中国はダライラマが画策したというが、これだけ多くの地域で同時多発的に起こるでしょうか。これまでチベットを見てきたが、非常に不満不安が高まっていた。心の自由を奪われた人は立ち上がらざるをえなかった。
3月10日の写真。49年前の3/10。ラサを占拠する中国軍に対してチベット人たちが立ち上がった。そのときダライラマはインドに亡命。その後8万6千人のチベット人が虐殺されたと聞いている。8万人がダライラマの後を追って、ヒマラヤを越えていった。
インドでのデモの様子。彼らは難民でインドにいて、叫ぶしかできることがない。叫んでも叫んでも、心の中からわき上がってくる怒りを抑えきれなくて、少しは過激な行動に出ることもある。
これはラサで何があったのかを劇で説明しているところ。
今年の3月10日。ダラムサラからラサに平和行進隊がいく計画を立てていた。今話題のチベット青年会議がはじめたもの。インドの警察によって100名以上が拘束された。
映像をみてわかるように、興奮はしているが、暴動ではなく、平和的な行進。
7月11日に東チベットからもどってきた。
ラサは外国人は受け入れたが、他は封鎖されたまま。
私もいくつかの街を通ったが、チベット人がすんでいる街の入り口には、土嚢がつまれ、機関銃を構え、軍隊の検問がある。
ホテルのカーテンの隙間から隠し撮り。
ゾルゲ?という街。みんな黒いマスクをしている。寒いときや砂嵐のときはそういう格好をするが、今の時期こういう恰好をするのは奇妙。顔を見せられないから。
ラプラン寺。今回も大きなデモがあった。入り込もうとしたら捕まった。この写真は拘束されたパトカーの中から撮ったもの。せっかくだから一枚撮らせてくれといったら、何とかお坊さんを撮らせてくれた。
これは別のデモが起こったデゴン?という地域。2月にも大きなもめ事があった。2月に2万の軍隊がやってきて、催涙弾をチベット人にバンバン発射し、街が真っ白になった。この街でも多くの犠牲者が出た。
もともと600人ほどの僧侶がいたが2月の衝突で300名が拘束、3月の蜂起で150人が拘束された。150人ほどの僧侶が残っているはずだが、ほとんど僧侶の姿は見かけなかった。
この写真の場所、3月以降、武装警察が軍隊が夜な夜な僧侶の部屋にやってくる。ここではたくさんの証言を聞いた。30万円ほどのお金を取られた。パソコンを取られた。強盗です。僧侶たちは抗議したいが何もできない。抗議をすればさらなる弾圧を受けるだけ。
このお寺の周りを回りながら、マニ車というものを回すが、このマニ車を回しているおばあさんは、私に対してお祈りをしている。彼女が何を言ったかというと「私はもうダライ・ラマにはお会いできません。もうお会いできないのです」と繰り返し、私の前でお祈りをはじめる。しかし、外国人の私と老婆が接することは非常に危険。私のほうは直接何かされることはないとしても、老婆の方は後から公安や警察からどういった仕打ちをされるかわからない。
今回チベットで起きたことを中国は歪曲してチベット人に教育している。
中国は3月14日の暴動のことだけを言う。暴徒によって漢民族が殺された、平和的なデモではなかった、ダライ・ラマの画策だった、と繰り返し言わせている。文革時と同じようにステージに立たせて、一人一人民衆に向かって紙に書かれてあることを読み上げなければならない。その後ろには共産党員が立っている。
今回のチベット騒乱に関して、たくさんのデモが日本でも起きた。このことは私も非常に驚いている。世界中で多くの人が声をあげてくれた。しかし、残念ながらチベット内部の人たちはそういうことをまったく知らない。中国はプロパガンダで、中国の武力鎮圧は世界中の国々に評価されている、我々の判断は正しかった、とチベット人に伝えている。チベット人も実はそう思っていた。それぐらい情報統制は徹底している。
今もまだデモが起きている。四川省では拘束される僧侶が後を絶たない。その声は自由を手に入れるまで、決して止むことはないと思う。
亡命政府の発表では今回の死者は、2百?人、拘束者は5000人以上となっているが、これは身元が確認できた人のみ。行方不明者が相当数いると言われている。
今回の件で、皆が口を揃えていう。文化大革命の時代が戻ってきたようだ、と。
あと数回つづく
http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/28/ へ続く
場所は渋谷の宮下公園。今日は気温が34℃を超えており、道路の上は40℃を超えていたと思うぐらい暑かったが、熱心なサポーターの方々が150人くらい集まった。
開会の挨拶は、日本チベット友好協会の田中健之氏が行った。
田中氏の話では、20数年前は、チベット運動で集まる人は8人とか10人の規模だったそう。このトーチリレーはチベット青年会議が主催で、聖火はダラムサラ ニューデリー ミネソタ サンフランシスコ、ニューヨーク、トロント、ベルギー、パリ、日本に来て、次はネパール 8月8日にラサを走るという。でもラサでできるのだろうか?
以下、開会式での挨拶。私は記憶力の衰えがひどいので、今回はICレコーダーで記録した。
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チベット青年会議の声明文。
この聖火リレーはチベットは1949年までは独立国だったという歴史的事実に光を当て、北京オリンピックに抗議するために行われる。
チベットでの人権問題はますます悪化している。
チベットで弾圧を続ける中国共産党にオリンピックを開催させたIOCの判断はオリンピック精神に反する。人権を考慮しない中国政府に対し、抗議の声をあげていただきたい。平和を愛するチベット人が、失われた独立を回復するのを助けていただきたい。
この聖火はチベットの同胞たちの団結を象徴するものである。チベットの自由を求める声は今でも私たちに届いている。
チベット人女性、ミーナ?さん
チベットの中では独立か自治かで激しい議論がある。私は独立を目指すしかないと思う。中国が高度な自治を与えると言っても、結局民族の自決権は手に入らない。チベットの将来を考えて細かなさじ加減でチベットを運営できるのはチベット人だけ。
ウイグル人イリハム氏
チベットの独立、中国のすべての他の民族の独立を願う。
今回のリレーの主旨に心から賛成。中国人と同じレベルで話をするためには独立が必要。
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中国民主団結連盟副主席
王進忠氏
中国はいろんな民族問題を抱えている。一番大切なのは中国が民主化すること。二番目にくるのが宗教の自由。そのためには中国共産党を倒さなければならない。
モンゴル自由連盟党幹事長 ダイチン氏
チベットやウイグルの人たちと、力を合わせてがんばっていきたい。
自由チベット協議会代表・酒井信彦氏
元東京大学史料編纂所教授。専門は日本の室町時代~江戸時代の歴史。
20年近くチベット問題にかかわってきたが、最近のチベット問題の取り上げられ方に違和感を感じている。
チベット問題の本質は民族独立問題。中国人の侵略の問題。このことが無視されて、ことさら人権の問題だと強調されている。
人類の歴史は民族自決、民族独立の歴史。それが基本的な世界の進歩の潮流。第1次大戦後のベルサイユ講和会議で東ヨーロッパに8カ国が一挙にできた。しかしアジア、アフリカでは独立が認められなかった。それができたのは大東亜戦争の結果によるものである。
戦後の侵略国家ソ連と中華人民共和国では民族独立が実現していなかった。1990年代の初めにソ連が崩壊して15の国家ができた。チェコスロバキアも分かれ、ユーゴスラビアも7つに分かれた。
しかし中国は、民主化も民族独立も実現していない。これは世界の歴史にまったく逆行したものだ。それを世界の先進国は認めてしまっている。アジアは馬鹿にされている、無視されている。サミットでもチベット問題を取り上げない。我々アジア人は、そういう正義が踏みにじられている状態に対して、怒りをもって立ち上がらなければならない。我々が立ち上がらなければ、我々に中国人の侵略が襲いかかってくるだろう。
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この後デモに移った。
東トルキスタンや南モンゴルのときは30分ほどで終わったが、今回は適度な長さでよかったと思う。今回は楽しめるデモということで、プラカードも中国を明確に糾弾するような内容のものは少なかったように思う。だが実際のコールは、「中国はチベットから出て行け!」等、いつもと同様のものだった。
参加者が望んでいるのは楽しむことではなく、この問題を多くの人に知ってもらうことだと思うので、いつものように多種多様なプラカードがあったほうがよかったように思う。
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夕方のニュースでは、築地市場移転反対のデモや、横須賀での原子力空母入港反対のデモはやっていたが、今回のトーチリレーは見かけなかった。長野であれだけ日本人が集まった要因の一つは、各国での聖火リレーの妨害のニュースが大々的に流れたことだと思うので、メディアに取り上げられることは特に重要だと思う。
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到着後チベット国歌斉唱とフリーチベットのコール。
休憩のあと、ペマ・ギャルポ氏が到着。
以下、閉会の前の挨拶、
ペマ・ギャルポ氏
一チベット人として、この暑い中、支援してくださった皆様に心から感謝いたします。
チベット青年会議は、1970年代から今日まで、チベット人の権利のために結束してきた。彼らは決してテロリストではない。テロリストとは人殺しのことだ。チベット青年会議が、いつどこで、人に危害を加えるようなテロ活動をやったか。これはチベット人を分裂させるために、中国がかってにチベット青年会議をテロリストと位置づけているにすぎない。
我々一人一人に人権があるように、国際社会の通念として、各民族は民族自決権をもっている。チベット青年会議はそれを主張しているにすぎない。チベット青年会議は、なぜ120万のチベット人が犠牲になったか、なぜ私たちの父、母が今日まで戦ってきたか、それを訴えているにすぎない。
ここに集まってくださったみなさんは、正義のために立ち上がってくれたのだと信じたい。そしてその正義はチベットにあると私は信じたい。
いかなる民族も、他の民族を侵略してはならない。いかなる人にも、他の人の幸せをぶち壊す権利はない。ここには中国人もウイグル人もモンゴル人も来ている。我々はみんな幸せを求めている。良識ある人たちがここに集まっている。
みなさんの勇気と良識に心から感謝したい。
チベット問題はきのう今日始まった問題ではない。
1950年以来、チベット人は武力によりチベットをとられた。その武力で今日も支配されている。ダライ・ラマ法王は、そういう状況でも、なんらかの形で、正統性を示すために、お互いの意見を尊重し、話し合いをしようとおっしゃっている。
法王は今も努力している。その努力に対して、心から声援をおくらないチベット人は一人もいない。チベット青年会議を含め、ダライ・ラマ法王の意志、政策に反対する人は一人もない。
しかし同時に、チベット青年会議は、中国が今日まで何をやってきたかということを考えると、そう簡単に騙されてはいけない、ということを言っている。そのためには、中国が国際社会の常識を守れる国になってほしい。法律を尊重する国になってほしい。
もし世界中の人たちが、2000万人殺したヒトラーだけを非難して、このオリンピックの開会式で8000万人殺した毛沢東の肖像の前で、真面目な顔をして胸に手をあてたらどうなるか。この世の中に正義はないということになる。
チベット青年会議は、中国がオリンピックを主催するにふさわしい国になってほしいが、そうならないから、こういう形で世界に訴えている。
そのことをぜひみなさん覚えておいてほしい。
チベット人は、自分たちが主人公になり、自分たちの幸せを求めたい、という極めて単純で当たり前のことを要求している。これは世界の誰もが持つべき権利である。
中国人もその権利をもつべきだ。中国人は自分たちの領土において、民衆が主体性をもって、幸せになろうとするのは当たり前のこと。そういうことをチベット人は要求しているだけである。
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田中健之氏
青海省では、たくさんの政治犯が核物質の処理をさせられて、被爆している。またそこでとれた麦や蜂蜜などが食卓にならんでいる。チベット問題はオリンピックが終わったからといって終わったわけではない。チベット問題はウイグル、南モンゴル、中国の民主化の問題と大きく関わっており、また私たちアジアの問題でもある。
イリハム氏。
チベット・ウイグル・南モンゴルはこれからも自由を手に入れるためにがんばらなければならない。これはチベット人、ウイグル人、モンゴル人だけの問題じゃない。アジアの問題である。将来的に世界の問題になる。この問題を早急に解決しないと、この三民族はこの世の中から消えてしまう。後はみなさんの国、東南アジア、アジア全体が消えてしまう。だから、我々はこれからも手を携えてがんばっていきましょう。
ダイチン氏
人権、自由というものは生まれたときからあるもの。誰かがくれるものではない。しかし、皆さんご存じのように、チベット、ウイグル、南モンゴルでは自由は、人権は全然ない。だから我々は中国共産党と戦っていきたい。みなさん、ぜひよろしくお願いします。
中国人王進忠さん、
チベットやウイグルや南モンゴルの根本の問題は中国共産党。中国共産党を倒さないと中国は民主化できない。民主化できないと宗教の自由が得られない。
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チベット人の女性。
チベットが存続する唯一の道は独立。何世代も独立できないかもしれないけれど、独立を取り戻すという夢を捨ててはいけない。先祖、今の私たち、そして子孫のためにも、独立は捨ててはいけない夢であり目標。私は未熟ながら努力していきたい。チベットの仲間や、運命共同体と言っていいウイグルや南モンゴルの人たち、そして日本のみなさんと。私は独立は実現できない夢ではないと思っている。
酒井信彦氏
最近チベット関係の本アジアの試練チベット解放は成るか 櫻井よしこ編が文芸春秋社から出た。ペマさんの対談もある。私も昔の論文を3本入れてもらった。そのうちの一つは、中国の侵略の思想は共産主義によるものではなく、孫文の三民主義の民族主義に基づくものであるということを実証的に書いている。
他の2つは、日本のマスコミ、知識人、人権運動家が、チベット問題の本質を昔から知っていながら隠しているということを実証的に書いた。
私が常々感じていることがある。みなさん今日「フリーチベット!フリーチベット!」とおっしゃっていた。確かにチベットの人たちは自由にならなければならない。
しかし我々日本人もチベット、中華人民共和国の問題で、頭の中が自由ではない。
日本人自身も拘束されている、嘘を教えられている、嘘を信じ込まされている。
朝日新聞、岩波、今では有名な知識人、政治家、実業家、宗教家が平気でそういうことをしている。そういう間違った日本の世の中を正さなければいけない。
だから、チベット問題、ウイグル問題、南モンゴル問題は、彼らだけの問題ではなく、我々自身の問題でもあるということを理解してほしい。
宮下公園のホームレスの方が猫を飼っていた。手の平にのるような小さなときから飼っているという。続々集まってくるチベットサポーターを見ながら、ホームレスの方は、「中国はチベットで相当ひどいことしてるね。今は少しマシかもしれないけれど、オリンピックが終わったらもっとひどくなるよ」と話していた。話を聞いていると、チベット問題についての認識は、我々と同様だった。
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渋谷区は宮下公園の命名権をナイキに売り渡し、ナイキ公園に名称が変更され、有料のスポーツ施設ができるという。
この小泉改革もどきが実行されれば、あのホームレスの方々も猫もたたき出されることになるのだろう。あの公園はデモによく使われているそうだが、それもできなくなる(デモ封じ?)。
日本で自殺者やホームレスが増えたのは、長年の国の舵取りの誤りによるところが大きい。役人や政治家が好き放題やって、財政を破綻寸前に追いやり、そのツケを国民に押しつける。その一方で、中国には我々の税金を大盤振る舞いし続ける。中国は、その金で経済成長を続け、チベット、ウイグル、南モンゴルの“改革”を加速し、他の国々にも札束外交で影響力を強め続けている。中国経由で我々の税金が多くの人々を苦しめることに使われている。
結局、日本のホームレスの問題もチベット問題も、大いに関係がある。酒井先生のおっしゃるように、チベット問題は我々の問題でもある。我々が選んだ政治家が行った政治の結果が今の状況を招いている。選挙民が変わらなければ。
ナイキ公園化計画反対の賛同者を集めているので、関心のある方、ご協力を。7月20日が最初の締め切りだそうです。
みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会
ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3951768
このリレーの報告
http://8jin.blog47.fc2.com/blog-entry-56.html
http://dadao.kt.fc2.com/tibet64.htm
http://nekomimi.la.coocan.jp/free_tibet/ft080713/
http://nerituti.iza.ne.jp/blog/entry/642790
http://nakayamatetsuya.blog46.fc2.com/blog-entry-115.html
チベット問題は日本の問題でもあると思う方
中国に隷属しようとする政治家を落選させたい方
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