日本はチベットから多くのことを学ぶことができる。優れた精神文化や深い歴史からだけではなく、中国に支配された経緯と命がけの抵抗運動から、我々が多くのことを学ぶべきだ。チベットが自由になるということは、日本が自由になるということだ。――このサイトの趣旨にご賛同いただける方は、サイト内の文章をご自由にご利用ください
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http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/28/ の続き
「歴史からひも解くチベット、中国、モンゴルの関係」
早稲田大学教授 石濱裕美子氏
チベットの人たちが自分たちの国のことをどのように考えているか、入門的な話。
幸いにも壊されずにすんだ、14世紀のギャンツェの寺院にある観音像。真ん中に4本手の観音様。右には緑ターラ菩薩、左には白ターラ菩薩がいる。このお三方がチベットの歴史において非常に重要な意味をもつ菩薩様。
阿弥陀様が仏様になられて、仏になると輪廻はしなくなり、この世の我々からは遠い存在になる。
阿弥陀様の中の慈悲、愛と哀れみの心が人間を救おうとするときに、この世界で観音様のお姿をとる。この写真の観音様の上には阿弥陀様の顔がある。阿弥陀様がこの世界で働くときのお姿が観音様で、そのシンボルは蓮の華。菩薩というのは仏教では、修行を重ねて仏になるところまでいっているにもかかわらず、我々が苦しんでいるのを見るに見かねて、この世に留まって人々を救ってくださる。しかも仏になるほどの方なので、超常的な力をもつ。
13世紀以降のチベットの史書には観音様についてこう書かれている。
観音様は、太古の昔、チベットに現れて、すべての命あるものたちを悟りに導こう。それが実現するまでは楽な思いをしないという誓いを立てる。チベットにおいて、人類の発生もすべて観音様のお力によるもので、7世紀、そろそろチベット人も仏教を学ぶだけの精神性をもつようになったと判断され、王の姿になって現れた。
写真の真ん中の像がソンツェンガンポ王。開国の王としてチベットを歴史時代に導いた王様。向かって右の像が、ネパールからきた妃。左が中国からきた文成公主。この二人が白ターラと緑ターラの化身と言われている。ソンツェンガンポ王の頭の上には阿弥陀様がのっており、ターバンで隠していたと13世紀の史書には書かれている。
史実としてソンツェンガンポ王は実在するが、チベット史の重要な一コマなので、13世紀以降神格化される。この王はマルポリの丘に宮殿を建てる。現在ポタラ宮が建っているところ。
チベットを混乱させる元となっているのは夜叉女。チベットの国土の上にいる夜叉女が動くと戦争や病気が起きて、不穏になる。だから夜叉女が動かないように両手両足の上にお寺を建てる。夜叉女とは仏教が伝わる前の人の心を表している。みんなエゴイスティックで自分のことしか考えなくて、自分の地域、自分の家族、一族のことだけを考え、チベットは混乱していた。
そこに仏教を導入してもっと高い視点で、各々がたるを知って、自分の幸福というのは他人を敵にして戦うことによって得られるのではなくて、自分の心を平安にすることによって得られる、という仏教的な考えを持ち込むことで、チベットが幸福、平和になっていったということが開国神話に描かれている。
中国からきた妃がラモチェ寺を建て、ネパールからきた妃がトゥルナン(ジョカンと呼ばれている釈迦堂)を建てた。この二つの寺の門前町がラサの街として、現在見るような姿に発展する。
街の真ん中にあったトゥルナン、釈迦堂は歴代の為政者が崇拝して飾り立てられてきた。
現代人が書いたチベット上の夜叉女の絵。夜叉女の真ん中にラサがある。心臓に杭を打ち込むような形で、最後に夜叉女の動きを止めている。両手足、肘ひざ、付け根全部で12個所に寺を建て、最後にラサの都が築かれたという、歴史的な神話を絵にしたもの。
パリのギュメ美術館所蔵のラサにある僧院をすべてまとめて描いた仏画。
上にセラとガンデンとデブンがある。ラサの街中が下の方にまとまっていて、画面より上がポタラ宮で、画面のこっちがトゥルナン寺、こっちがラモチェ寺。
もともとソンツェンガンポ王の王宮があった上にダライラマ法王がポタラ宮を建てた。
ラサの街の中核に、7世紀の3人の事跡が生きている。
89年のジョカン寺の写真。昔はびっしりその周りに貴族の館が建っていた。中国がきてからは前に広場が作られて、整理されてしまった。しかし今なお7世紀の碑文がお寺の前に残っていたりする。屋根の上のゲンツェン?と言われる木でできたものに、18世紀の貴族の名前が入っている。
お寺の中身は全部壊されて、宗教的でないものが若干残っただけだが、それでも歴史的なものが重々重なっていて、すごい一角です。
お寺の前にある碑文は、中国とチベットが戦争したときに、もうこれから戦争は止めましょう。チベット人はチベット人の領域を守り、中国人は中国人の領域を守って平和に暮らしましょう、と書いてある。
この碑文は当時、唐の長安とトゥルナンと、国境地帯に建てられたが、これだけが残った。
トゥルナンのお釈迦様が11才のときの像。お釈迦様は出家されていないので飾りがいっぱいついている。この飾りは歴史的に、モンゴルの王侯アルタン・ハーンやダライ・ラマ5世など、チベットで名前を残した為政者は、必ずトゥルナンの復興に名前を残している。
この写真は89年なのでまだダライラマの写真が残っている。今は全然だめ。
ラモチェ寺の3,4年前の写真。先ほどのギュメ美術館のタンカとほとんど形が同じ。
ここで私が何も言わずにカメラを構えて写真を撮ったら、お坊さんにすごく怒られた。私はどう見てもチベット人には見えないから、スパイかなんかと間違えられたようだ。物凄く怒鳴られたのでここのお坊さんは気が荒いな、と思ったら、案の定今年の三月に蜂起していた。
お渡しした資料にダライラマの転生譜がある。17世紀ぐらいにこの転生譜が確定する。
ダライラマの転生譜はチベット史と密接にリンクしている。
お釈迦様の時代から転生が始まる。最初はもちろん観音菩薩様。インドでの前世が36代続き、古代チベットに入ってから、37代目から46代目まで続く。37代のニャーティツェンポ王がチベットに登場した最初の王様。インド王家の末裔がチベットに亡命。チベットのボン教徒に推戴された初代王。
その後何代か王がいて、43代目ソンツェンガンポ王が国を統一。マルポリの丘に宮殿を築き、チベットを統一し、この頃、他の国にまで記録されるチベットという国の歴史時代が始まる。
チベット文字を制定して、ネパールと唐から妃を迎え、両国の仏教をチベットに導入。
この時代は後にすごく理想化されて、この王様の時代には仏教に則った政治が行われていたというふうに思われ、その後のチベットの為政者はこの時代を再現することが目標になる。
9世紀のティソンデツェン王。古代チベット最強の王。チベットで初の僧院サムエを建立。チベット人からなる現在世界に散っているチベット僧団の最初を開いた。
この時代、中国では安史の乱が起き、チベット人はトルコ人と組んで長安を占領。
考えようによってはこの時代、チベットは中国を侵略していた。そういう時代もあった、と遠い目になってしまう。
46代ティレルパチェン王。世界の2/3がチベットのものであったと言われるぐらい、強力だった。その後まもなくダルマ王が出てきて、仏教を弾圧。仏教の弾圧とともに、古代王国が崩壊。
ソンツェンガンポから始まってダルマ王に終わる時代がチベット人にとって理想の時代として、その後の長い分立時代に語られることになる。
宗派分立の時代。チベット史を超簡単に考えると三段階になる。古代統一の時代、中世分立の時代、近世ダライラマ統一政権の時代。
47代目ドムトン。ダルマ王が弾圧して仏教がなくなったとき、仏教を立て直そうと、インドから、アティーシャというインドのディクラマシーラ僧院の僧院長が呼ばれた。その弟子がチベット仏教の基礎を作った。それがドムトン。この方を慕う人の派がカダム派。以後の数派現れるチベットの宗派の母体になる。
55代サチェン・クンガーニンポ。サキャ派の祖師。
56代シャリンポチェ。ツェル派カギュ派の祖師。
という風に現代にまで伝わる他の宗派の祖師が組み込まれていて、その時その時で活躍した方がダライラマの前世に組み込まれている。17世紀の転生譜だからこういうことができるとも言える。
62代からダライラマ体制がはじまる。ダライラマという一人の方が亡くなると次の方を探すという制度が始まるのは63代目ぐらいから。
ダライラマの登場を助けたのはツォンカパの宗派で、ダライラマはツォンカパが創始したゲルク派の高僧。ツォンカパは分裂していたチベットのいろいろな物の考え方、修行法、教育法を極めて天才的にまとめ上げた。教育システムをきちんと整備した。僧院の秩序を整然としたものにした。教義も、密教やっている人は密教だけ、顕教やっている人は顕教だけ、多様だったチベット仏教のシーンを塗り替える。どこにいってもツォンカパの顔があるが、他の宗派を圧倒していくだけの力と教義があった。その弟子がダライラマ1世。
ゲルク派が拡大するとともにダライラマも力を持つようになる。
ダライラマ3世の時代、ゲルク派はモンゴルにまで進出。
絵の右下の小さい人物はアルタン・ハン。南モンゴルを統一した英雄。この人がダライラマに仕えることで、以後モンゴルに怒濤のようにチベット仏教が入っていく。
この絵の人物の大きさの違いが、二人の力関係を表している。
17世紀、ダライラマ5世の時代。ダライラマ政権とゲルク派がチベットの統一に成功する。
ゲルク派の背後にあったモンゴル軍の力もあるが、宗教的な権威が強くて、モンゴル軍はあくまでもボディーガードだった。
ダライラマ5世が手にしているのは法輪。歴代のダライラマの絵でこれを手にしている人は強力な世俗的な権力をもっていた。5世以前は法輪を持っていない。即位前に亡くなった若いダライラマも持っていない。5世は法輪を持つにふさわしい生涯をおくった。
彼が行った一番すごいことはマルポリの丘にポタラ宮を建てて、自らをソンツェンガンポ王の再来であり、観音菩薩の示現であることを示されたこと。
ダライラマ5世の肖像。手に蓮の華を持っている。これはダライラマが観音様であることを示している。モンゴル王侯グシ・ハンも描かれている。この王侯は代々青海地方に子孫を駐留させてダライラマのボディーガードをさせている。
ポタラ宮も描かれている。こういう仏画は、生涯の事跡を一枚に詰めている。上の方に縁のあった強い仏、先生が描かれている。
ポタラ宮の赤宮部分。赤宮とはダライラマ五世があまりにも偉大だったので、彼の事跡を検証して彼の遺体をミイラ化して祀っている、それを中心にして彼をお祀りするために建てられたのが赤宮。
ダライラマ14世のブロマイド。現在ももちろん観音菩薩の化身としてチベット人に敬われている。1959年に亡命されてから以降、非常に苦しい時代を生きてきたが、一度として武力で闘争するとか他人の悪口を言うとか、徹頭徹尾そういうことがないので、チベット人は観音菩薩様であると思っている。
ノーベル平和賞受賞したとき、ダライラマは最後に、「この空間が存在するかぎり、命あるものが存在するかぎり、私はこの地に留まって、命あるものの苦しみを取り除こう」というお祈りを唱えた。このお祈りはチベット人の普通の教典の中にも入っていて、みんな知っている。
これは、ダライラマが菩薩であり、チベット人は菩薩であろうとするのを理想的な人間像だと考えているが、チベット人がいるかぎり、なんとかチベット人の苦しみを取り除いていこうという彼の決意は、太古の昔の観音菩薩の誓いと同じで、チベットの歴史の最初からその願いが続いているということになる。
セブンイヤーズインチベット、クンドゥンを見ると、ポタラ宮からダライラマが望遠鏡でラサの街を見下ろすシーンが出てくる。これは史実だが、好奇心旺盛な男の子が街を眺めて喜んでいるのではなくて、チベット人はあの丘の上にいつも、太古の昔からチベットを導いてくれる観音菩薩が現れて、自分たちを見守ってくれているという認識がある。ダライラマが望遠鏡を向けると、みんな手を合わせてお辞儀する。ダライラマに見守っていただいているという感覚。
現在そのダライラマがいらっしゃらなくなった。
1936年、スペンサー・チャップマンの写真。古いポタラ宮。
チャクポリの丘から撮影。ポタラ宮の向かい側にある聖なる丘。
マルポリの丘は赤い丘、観音の丘。チャクポリは文殊様の丘。17世紀、ダライラマの転生譜を編んだ5世の摂政サンギ・ギャンツォがチャクポリにチベット医学の学校を建てた。当時チベット医学大学の最高峰。当時お寺として機能しているからチベットホルンを吹いている人も写っている。
ショルといわれる職人村が写っているが現在なくなっている。このあたりは観光地と整備されてほとんどなくなっている。
沼地の部分は今は共産党の建物でいっぱい。
今チャクポリは全部破壊されたテレビ塔しかないという悲しい状況。
昔は仏塔をくぐってラサに入った。この仏塔の意味は聖なる二つの丘をつなぐ尾根のトンネル。
自動車道路をつくるために一端壊されたが、最近復活した。
ポタラ宮前の広場。ここでいろんな国家式典が行われている。昔はパーティーが行われるような沼地だった。今はヒマラヤを記念したモニュメントがある。しょーもないものが建っている。このあたりもしょーもない建物が建っちゃってどうしょうもない。
1936年の南からみたラサ。ポタラ宮、ジョカンの間は草原。歩いていける距離。これがキチュ川。ちいさな街だった。
1999年、家がみっちり建っている。2006年鉄道ができると、高層ビルが。歴史的興味があるので、誰か毎年定点撮影してその変化がわかるようにほしい。
ダライラマ法王の存在はチベット史と密接にリンクしていて、この歴史があるかぎりチベット人は他民族がどうこうするとかいうことは思いもつかない。
この歴史的な話はチベット人は学校で教わることはない。チベット亡命政府も批判されるので13世紀そのままの、ここまでの教え方はしなくなっている。
しかし13世紀から書かれ続けている歴史書と、チベット人の認識はついこの間まで一致していた。そういうことを信じて歴史を紡いできた人たちだから、ダライラマもソンツェンガンポの時代は王様だった。中世の時代には僧侶になって現れる。チベット人が仏教徒として十分立派になってきたので、僧にして王であるダライラマ法王という政俗一致の存在が現れた、というように彼らの中では歴史が進化していって仏教国として完成していっているという認識がある。
だから、そこに「おまえたちは間違っている」という人たちが入ってきて、ある意味では遅れていたし間違っていたのだろうが、彼らが19世紀までもっていた歴史観まで忘れ去られてしまうのは寂しい話なので、みなさんにご披露させていただいた。
あと2回ぐらい続きます。
http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/30/ へ続く
「歴史からひも解くチベット、中国、モンゴルの関係」
早稲田大学教授 石濱裕美子氏
チベットの人たちが自分たちの国のことをどのように考えているか、入門的な話。
幸いにも壊されずにすんだ、14世紀のギャンツェの寺院にある観音像。真ん中に4本手の観音様。右には緑ターラ菩薩、左には白ターラ菩薩がいる。このお三方がチベットの歴史において非常に重要な意味をもつ菩薩様。
阿弥陀様が仏様になられて、仏になると輪廻はしなくなり、この世の我々からは遠い存在になる。
阿弥陀様の中の慈悲、愛と哀れみの心が人間を救おうとするときに、この世界で観音様のお姿をとる。この写真の観音様の上には阿弥陀様の顔がある。阿弥陀様がこの世界で働くときのお姿が観音様で、そのシンボルは蓮の華。菩薩というのは仏教では、修行を重ねて仏になるところまでいっているにもかかわらず、我々が苦しんでいるのを見るに見かねて、この世に留まって人々を救ってくださる。しかも仏になるほどの方なので、超常的な力をもつ。
13世紀以降のチベットの史書には観音様についてこう書かれている。
観音様は、太古の昔、チベットに現れて、すべての命あるものたちを悟りに導こう。それが実現するまでは楽な思いをしないという誓いを立てる。チベットにおいて、人類の発生もすべて観音様のお力によるもので、7世紀、そろそろチベット人も仏教を学ぶだけの精神性をもつようになったと判断され、王の姿になって現れた。
写真の真ん中の像がソンツェンガンポ王。開国の王としてチベットを歴史時代に導いた王様。向かって右の像が、ネパールからきた妃。左が中国からきた文成公主。この二人が白ターラと緑ターラの化身と言われている。ソンツェンガンポ王の頭の上には阿弥陀様がのっており、ターバンで隠していたと13世紀の史書には書かれている。
史実としてソンツェンガンポ王は実在するが、チベット史の重要な一コマなので、13世紀以降神格化される。この王はマルポリの丘に宮殿を建てる。現在ポタラ宮が建っているところ。
チベットを混乱させる元となっているのは夜叉女。チベットの国土の上にいる夜叉女が動くと戦争や病気が起きて、不穏になる。だから夜叉女が動かないように両手両足の上にお寺を建てる。夜叉女とは仏教が伝わる前の人の心を表している。みんなエゴイスティックで自分のことしか考えなくて、自分の地域、自分の家族、一族のことだけを考え、チベットは混乱していた。
そこに仏教を導入してもっと高い視点で、各々がたるを知って、自分の幸福というのは他人を敵にして戦うことによって得られるのではなくて、自分の心を平安にすることによって得られる、という仏教的な考えを持ち込むことで、チベットが幸福、平和になっていったということが開国神話に描かれている。
中国からきた妃がラモチェ寺を建て、ネパールからきた妃がトゥルナン(ジョカンと呼ばれている釈迦堂)を建てた。この二つの寺の門前町がラサの街として、現在見るような姿に発展する。
街の真ん中にあったトゥルナン、釈迦堂は歴代の為政者が崇拝して飾り立てられてきた。
現代人が書いたチベット上の夜叉女の絵。夜叉女の真ん中にラサがある。心臓に杭を打ち込むような形で、最後に夜叉女の動きを止めている。両手足、肘ひざ、付け根全部で12個所に寺を建て、最後にラサの都が築かれたという、歴史的な神話を絵にしたもの。
パリのギュメ美術館所蔵のラサにある僧院をすべてまとめて描いた仏画。
上にセラとガンデンとデブンがある。ラサの街中が下の方にまとまっていて、画面より上がポタラ宮で、画面のこっちがトゥルナン寺、こっちがラモチェ寺。
もともとソンツェンガンポ王の王宮があった上にダライラマ法王がポタラ宮を建てた。
ラサの街の中核に、7世紀の3人の事跡が生きている。
89年のジョカン寺の写真。昔はびっしりその周りに貴族の館が建っていた。中国がきてからは前に広場が作られて、整理されてしまった。しかし今なお7世紀の碑文がお寺の前に残っていたりする。屋根の上のゲンツェン?と言われる木でできたものに、18世紀の貴族の名前が入っている。
お寺の中身は全部壊されて、宗教的でないものが若干残っただけだが、それでも歴史的なものが重々重なっていて、すごい一角です。
お寺の前にある碑文は、中国とチベットが戦争したときに、もうこれから戦争は止めましょう。チベット人はチベット人の領域を守り、中国人は中国人の領域を守って平和に暮らしましょう、と書いてある。
この碑文は当時、唐の長安とトゥルナンと、国境地帯に建てられたが、これだけが残った。
トゥルナンのお釈迦様が11才のときの像。お釈迦様は出家されていないので飾りがいっぱいついている。この飾りは歴史的に、モンゴルの王侯アルタン・ハーンやダライ・ラマ5世など、チベットで名前を残した為政者は、必ずトゥルナンの復興に名前を残している。
この写真は89年なのでまだダライラマの写真が残っている。今は全然だめ。
ラモチェ寺の3,4年前の写真。先ほどのギュメ美術館のタンカとほとんど形が同じ。
ここで私が何も言わずにカメラを構えて写真を撮ったら、お坊さんにすごく怒られた。私はどう見てもチベット人には見えないから、スパイかなんかと間違えられたようだ。物凄く怒鳴られたのでここのお坊さんは気が荒いな、と思ったら、案の定今年の三月に蜂起していた。
お渡しした資料にダライラマの転生譜がある。17世紀ぐらいにこの転生譜が確定する。
ダライラマの転生譜はチベット史と密接にリンクしている。
お釈迦様の時代から転生が始まる。最初はもちろん観音菩薩様。インドでの前世が36代続き、古代チベットに入ってから、37代目から46代目まで続く。37代のニャーティツェンポ王がチベットに登場した最初の王様。インド王家の末裔がチベットに亡命。チベットのボン教徒に推戴された初代王。
その後何代か王がいて、43代目ソンツェンガンポ王が国を統一。マルポリの丘に宮殿を築き、チベットを統一し、この頃、他の国にまで記録されるチベットという国の歴史時代が始まる。
チベット文字を制定して、ネパールと唐から妃を迎え、両国の仏教をチベットに導入。
この時代は後にすごく理想化されて、この王様の時代には仏教に則った政治が行われていたというふうに思われ、その後のチベットの為政者はこの時代を再現することが目標になる。
9世紀のティソンデツェン王。古代チベット最強の王。チベットで初の僧院サムエを建立。チベット人からなる現在世界に散っているチベット僧団の最初を開いた。
この時代、中国では安史の乱が起き、チベット人はトルコ人と組んで長安を占領。
考えようによってはこの時代、チベットは中国を侵略していた。そういう時代もあった、と遠い目になってしまう。
46代ティレルパチェン王。世界の2/3がチベットのものであったと言われるぐらい、強力だった。その後まもなくダルマ王が出てきて、仏教を弾圧。仏教の弾圧とともに、古代王国が崩壊。
ソンツェンガンポから始まってダルマ王に終わる時代がチベット人にとって理想の時代として、その後の長い分立時代に語られることになる。
宗派分立の時代。チベット史を超簡単に考えると三段階になる。古代統一の時代、中世分立の時代、近世ダライラマ統一政権の時代。
47代目ドムトン。ダルマ王が弾圧して仏教がなくなったとき、仏教を立て直そうと、インドから、アティーシャというインドのディクラマシーラ僧院の僧院長が呼ばれた。その弟子がチベット仏教の基礎を作った。それがドムトン。この方を慕う人の派がカダム派。以後の数派現れるチベットの宗派の母体になる。
55代サチェン・クンガーニンポ。サキャ派の祖師。
56代シャリンポチェ。ツェル派カギュ派の祖師。
という風に現代にまで伝わる他の宗派の祖師が組み込まれていて、その時その時で活躍した方がダライラマの前世に組み込まれている。17世紀の転生譜だからこういうことができるとも言える。
62代からダライラマ体制がはじまる。ダライラマという一人の方が亡くなると次の方を探すという制度が始まるのは63代目ぐらいから。
ダライラマの登場を助けたのはツォンカパの宗派で、ダライラマはツォンカパが創始したゲルク派の高僧。ツォンカパは分裂していたチベットのいろいろな物の考え方、修行法、教育法を極めて天才的にまとめ上げた。教育システムをきちんと整備した。僧院の秩序を整然としたものにした。教義も、密教やっている人は密教だけ、顕教やっている人は顕教だけ、多様だったチベット仏教のシーンを塗り替える。どこにいってもツォンカパの顔があるが、他の宗派を圧倒していくだけの力と教義があった。その弟子がダライラマ1世。
ゲルク派が拡大するとともにダライラマも力を持つようになる。
ダライラマ3世の時代、ゲルク派はモンゴルにまで進出。
絵の右下の小さい人物はアルタン・ハン。南モンゴルを統一した英雄。この人がダライラマに仕えることで、以後モンゴルに怒濤のようにチベット仏教が入っていく。
この絵の人物の大きさの違いが、二人の力関係を表している。
17世紀、ダライラマ5世の時代。ダライラマ政権とゲルク派がチベットの統一に成功する。
ゲルク派の背後にあったモンゴル軍の力もあるが、宗教的な権威が強くて、モンゴル軍はあくまでもボディーガードだった。
ダライラマ5世が手にしているのは法輪。歴代のダライラマの絵でこれを手にしている人は強力な世俗的な権力をもっていた。5世以前は法輪を持っていない。即位前に亡くなった若いダライラマも持っていない。5世は法輪を持つにふさわしい生涯をおくった。
彼が行った一番すごいことはマルポリの丘にポタラ宮を建てて、自らをソンツェンガンポ王の再来であり、観音菩薩の示現であることを示されたこと。
ダライラマ5世の肖像。手に蓮の華を持っている。これはダライラマが観音様であることを示している。モンゴル王侯グシ・ハンも描かれている。この王侯は代々青海地方に子孫を駐留させてダライラマのボディーガードをさせている。
ポタラ宮も描かれている。こういう仏画は、生涯の事跡を一枚に詰めている。上の方に縁のあった強い仏、先生が描かれている。
ポタラ宮の赤宮部分。赤宮とはダライラマ五世があまりにも偉大だったので、彼の事跡を検証して彼の遺体をミイラ化して祀っている、それを中心にして彼をお祀りするために建てられたのが赤宮。
ダライラマ14世のブロマイド。現在ももちろん観音菩薩の化身としてチベット人に敬われている。1959年に亡命されてから以降、非常に苦しい時代を生きてきたが、一度として武力で闘争するとか他人の悪口を言うとか、徹頭徹尾そういうことがないので、チベット人は観音菩薩様であると思っている。
ノーベル平和賞受賞したとき、ダライラマは最後に、「この空間が存在するかぎり、命あるものが存在するかぎり、私はこの地に留まって、命あるものの苦しみを取り除こう」というお祈りを唱えた。このお祈りはチベット人の普通の教典の中にも入っていて、みんな知っている。
これは、ダライラマが菩薩であり、チベット人は菩薩であろうとするのを理想的な人間像だと考えているが、チベット人がいるかぎり、なんとかチベット人の苦しみを取り除いていこうという彼の決意は、太古の昔の観音菩薩の誓いと同じで、チベットの歴史の最初からその願いが続いているということになる。
セブンイヤーズインチベット、クンドゥンを見ると、ポタラ宮からダライラマが望遠鏡でラサの街を見下ろすシーンが出てくる。これは史実だが、好奇心旺盛な男の子が街を眺めて喜んでいるのではなくて、チベット人はあの丘の上にいつも、太古の昔からチベットを導いてくれる観音菩薩が現れて、自分たちを見守ってくれているという認識がある。ダライラマが望遠鏡を向けると、みんな手を合わせてお辞儀する。ダライラマに見守っていただいているという感覚。
現在そのダライラマがいらっしゃらなくなった。
1936年、スペンサー・チャップマンの写真。古いポタラ宮。
チャクポリの丘から撮影。ポタラ宮の向かい側にある聖なる丘。
マルポリの丘は赤い丘、観音の丘。チャクポリは文殊様の丘。17世紀、ダライラマの転生譜を編んだ5世の摂政サンギ・ギャンツォがチャクポリにチベット医学の学校を建てた。当時チベット医学大学の最高峰。当時お寺として機能しているからチベットホルンを吹いている人も写っている。
ショルといわれる職人村が写っているが現在なくなっている。このあたりは観光地と整備されてほとんどなくなっている。
沼地の部分は今は共産党の建物でいっぱい。
今チャクポリは全部破壊されたテレビ塔しかないという悲しい状況。
昔は仏塔をくぐってラサに入った。この仏塔の意味は聖なる二つの丘をつなぐ尾根のトンネル。
自動車道路をつくるために一端壊されたが、最近復活した。
ポタラ宮前の広場。ここでいろんな国家式典が行われている。昔はパーティーが行われるような沼地だった。今はヒマラヤを記念したモニュメントがある。しょーもないものが建っている。このあたりもしょーもない建物が建っちゃってどうしょうもない。
1936年の南からみたラサ。ポタラ宮、ジョカンの間は草原。歩いていける距離。これがキチュ川。ちいさな街だった。
1999年、家がみっちり建っている。2006年鉄道ができると、高層ビルが。歴史的興味があるので、誰か毎年定点撮影してその変化がわかるようにほしい。
ダライラマ法王の存在はチベット史と密接にリンクしていて、この歴史があるかぎりチベット人は他民族がどうこうするとかいうことは思いもつかない。
この歴史的な話はチベット人は学校で教わることはない。チベット亡命政府も批判されるので13世紀そのままの、ここまでの教え方はしなくなっている。
しかし13世紀から書かれ続けている歴史書と、チベット人の認識はついこの間まで一致していた。そういうことを信じて歴史を紡いできた人たちだから、ダライラマもソンツェンガンポの時代は王様だった。中世の時代には僧侶になって現れる。チベット人が仏教徒として十分立派になってきたので、僧にして王であるダライラマ法王という政俗一致の存在が現れた、というように彼らの中では歴史が進化していって仏教国として完成していっているという認識がある。
だから、そこに「おまえたちは間違っている」という人たちが入ってきて、ある意味では遅れていたし間違っていたのだろうが、彼らが19世紀までもっていた歴史観まで忘れ去られてしまうのは寂しい話なので、みなさんにご披露させていただいた。
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外国人参政権、国民として怒りの意思表示を!
(01/13)
もしも外国人地方参政権が成立したら?
(01/12)
ペマ・ギャルポ氏聖地チベット展を観覧
(01/09)
小沢一郎 戦後日本の文明的病理が生んだ化け物
(01/03)
鳩山の発言を翻訳機にかけてみた
(01/01)
Uボート 売国民主党議員船団を撃滅せよ
(12/29)
民主党の船を機動部隊に攻撃させてみた
(12/23)
トラ!トラ!トラ! 我、朝敵・民主党を成敗せり
(12/20)
対馬が危ない 韓国に侵される国境の島
(12/11)
10.17日本解体阻止!!守るぞ日本!国民総決起集会2
(10/18)
10.17日本解体阻止!!守るぞ日本!国民総決起集会
(10/18)
外国人参政権反対運動の論点整理
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ゼンジー東京
70
男性
千葉県在住